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あたらしい可能性を共にをつくる「対話」⑦対話の質/共に責任を持つ

こちらは、対話ついてのシリーズ投稿です。対話的アプローチの中でも、ホールシステムアプローチの運用が前提とされていること、また、あくまで私の実践経験からのメモであることに留意してもらえると幸いです。

前回はその運用のコツについてお話をしています。今回はあらためて、その原理をもう少し詳しく見てみましょう。

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そのいちばん下に気になる記載があります。

「私たちは共ににダイアログの質について責任を持つ」

今回は、これについて話したいと思います。

ダイアログの質

ダイアログの「質」の改善は、大切な考え方です。

私たちはついお話の「量」を増やしてしまうことがあります。あるいは、たくさん話さないと意味が通らないことがある。たしかに、それも一つの考え方かもしれません。

しかし、そもそも話し合いは、いつも時間が限られています。まして目まぐるしく変化する状況の中では、たくさん話し合いをしているうちに、もう対応すべき状況が変わってしまっていることもあります。

その中で、話し合いの量を増やしてしまうと、どうしても時間が足りなくなりがちです。あるいは、またイチから話し直しでしょうか。かくして、「いい話し合いができないのは、時間が足りなかったからだ」とつい言い訳をしたくなってしまいます。

そんなときに、ダイアログの原理に集中することができれば、短い時間であっても、話したいことが話せて、聞けることが聞きやすくなります。逆に、ダイアログの練習が足りない会議だと、いくら時間があってもどっちでもいい話し合いに終始してしまうこともしばしばです。

大切なのは、量ではなくて質。それも、対話の原理をオススメする理由としてお誘いできればと思っています。そした、「対話の質の改善」というのは、前回の記事を踏まえれば、「より意味が通りやすくする」ということです。

共に責任を持つ

「共に責任を持つ」と言うことも目を引く言葉です。これは平たくいうと、こういうお誘いです。

「私たちより意味のあるやりとりができるように、みんなで一緒に責任を持ちませんか」

もしかしたら、責任と言うと「重たい」感じするかもしれません。それゆえ、人をお誘いすることがしづらいでしょうか。

こう考えてみてください。私たちは、自分自身がたった一枚の羽に過ぎないと感じることがあるかもしれません。それでは、空は飛べるかもしれませんが、強い風に吹かれ、誰かに扇がれ、流されるままになりやすくなるかもしれません。実際、目まぐるしく変化する状況の中で、自分ひとりで、望んだ方向に進むことはますます困難になってきていると私は感じています。

しかし、もし私たちが一緒にいれば、私たちは翼になることができます。私たちが「あっちに飛びたいね」と飛び立つことについて、あるいは、ここでの対話の質を高めていくことについて、ひとりひとりが共に対話の質に責任を持つことができれば、私たちは、ありたい未来の方向へと自分たちの意思で飛んでいくことができるはずです。

これは、共同責任(co-responsibility)へのお誘いです。

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責任と自由というのは、表裏一体です。もし私たち一人一人が、「誰かのせい」にしないで、この話し合いをよりよいものにするために、共に責任を持つことができれば、私たちは自由な空間を一緒に作ることができる。

「一緒に責任を持ちませんか」ということは、「一緒に自由になりませんか」というお誘いです。

そもそも、責任を分かち合おうと誘うことは、参加する私たちひとりひとりの中に、自由をする力や知恵があることを信じる態度です。もしあなたが相手を未熟で、力のない人だと思っていたら、「責任とろう」とは言わないはずです。

共同責任への招待は、信頼を示すことによって、コミュニティーを力づける(エンパワーする)行為だと私は考えています。また、それは相手をお客様ではなく、同じ船に乗るクルーとして、やっていくことへのお誘いです。

すなわち、対話とは、その場にいる人たちが「You/みなさん」から「We/私たち」へと変わっていくための実践と言えるかもしれません。

ちなみに、この過程を経ていないと、特にプロジェクトの中盤以降で、議論が難しくなってきた時、ファシリテーターに批判が集まることがよくあります。こうして「誰かのせい」や「誰かまかせ」が関係性に充満してくると、もうその器/コミュニティは壊れてしまいます。難しい話し合いを建設的にする事はできません。

このような事態を招いてしまう原因は様々であります。あえて厳しい視点から言うとすれば、それは「ファシリテートされ待ち」に人を仕立て上げてしまったファシリテーターやコーディネーターの失敗ではないでしょうか。

そのような役割の人が持つ、結果への責任感、自分の有効性を示したいエゴ、あるいは、カオスへの恐れ、既に言葉になっている範疇に落としどころを見つけたいというコントロール欲。こうした意識は、時にそのような失敗を生み出す罠になります。意思決定の責任は、参加者のものだという自覚をコミュニティの中で育てることが、より主体的で持続しやすい関係性を育む鍵になります。

なお、「自由と責任」についてさらに詳しく考えてみたい方は、こちらの記事が役に立つかもしれません。

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