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ペイケガニ

 深夜のオフィスでPCに向かっているとデスクをカニが横切っていった。小さくてゴワゴワした毛の生えたやつだ。残業のしすぎで頭がおかしくなったのかと思ったが、隣の席の上司がカニを目で追っていたのでどうやら現実の出来事らしかった。

「こいつを見るのは始めてか」上司が言った。

「そりゃそうですよ。なんでこんなところにカニがいるんですか」

 私が聞くと上司は悩ましげに腕を組んで、

「いいか、コイツはペイケガニだ」と言った。

「やむにやまれぬ事情で金融関係の大規模なプロジェクトが破綻したとき、関わった人々の無念の気持ちがこうして化けてでるんだ。ほら、見てみろ」

 そう言うと上司は自分のキーボードで足を休めているカニを指さした。全身が赤茶けた短い毛で覆われており、背中には何やら入り組んだ模様があるのが見て取れる。

「甲羅の柄が人の顔みたいに見えるだろ」

 言われてみればその背は憤怒の表情を浮かべた人間の顔に似ているのだった。吊り上がった目の下にあるのは、さしずめ「へ」の字に曲がった口だろうか。顔全体が飽くことを知らない、そしてまたやり場のない怨嗟の念を表して見えた。

「ほんとだ……僕らの会社でその手の案件を受けたことがあるってことですか?」

「いや、そんな話は聞いたことがない。大方我々が越してくる前にこのオフィスを使っていた会社が、欠陥のある決済システムや、企画倒れに終わったウェブマネーにたずさわっていたんだろう」

 上司が話す間に最初のカニはどこかへ行ってしまい、代わりにまた別のカニが机のへりに現れた。こちらは捻じ曲がった口元に言い知れぬ悲哀を感じさせる。オフィスには似たようなカニが無数に住みついているらしい。

「……ふつうそういうプロジェクトには、とてつもない量の人や年月がかけられるものだ。そしてある日突然、当人からすれば何年も精力を傾けて来たものが、まるで及びもつかない理由で無用の長物になるんだ。化けて出るわけだよ」

「へえ、そんなもんですかね」

「そんなもんだ」

 話を終えた上司は目の前のカニをひっ掴むと、口のなかに放り込んだ。

「あっ」

「中々いけるんだ、このカニ。残業のときの夜食になるぞ」

 上司はもごもごと口を動かしながらデスクに向き直り、そのまま仕事を始めた。なんとまあ罰当たりな、と思いはすれど別段声に出して言う気は起きず、私もデスクに向かうと最初に通りがかったカニが戻ってきていた。

 オフィスの白々とした明かりに照らされたその背には物言わぬ顔があり、何か過ぎ去っていったものに対して無言の抗議を続けている。先ほどから空腹感を覚えていた私はカニを手に取ると、そっと口に含んでみるのだった。

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