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去りゆく群像

どんな悦びや葛藤に踊っていても、日々は過ぎてゆく。

少し前に、年下の知人が病気で亡くなった。
特別仲が良いわけではなく、分野は違うけれど切磋琢磨し合う関係だから知人や友人より「仲間」という認識で、たぶん向こうもそうだったと思う。歳の近い知人が亡くなるのが初めてで、訃報を受けて酷く驚いた。

数年前お世話になった画業の方、音楽業の方も、活動終了と耳にした。

去りゆく群像を眺め、改めて自分はなぜ絵を描くのだろうか。

内側にあるものを描き留めたい
あなたに伝えたいことがある
得意なもので収入を得たい
すべてのものを描けるようになりたい
周りの声に応えたい
あなたを応援したい
描かないとこころが死んでしまう
だれかの役に立ちたい、関わりたい

半年ほど前、アトピー鬱のときに、人が怖くなった。
同時期にしていた事務で自分に理由のない罵詈雑言を浴び不安抑うつになり、心療内科に行き対話療法を望んでいたものの、3時間待ち診療5分、28日分の処方箋。もうだめだと思った。
クリニックが合わなくてだめなのか、自分が社会で生活するのがだめなのかわからないけど、とにかく外に対峙できない自分がだめだと思った。

ただの女の子だったわたしはとどけるよろこびを知った筈なのに、つくることとつながることが怖くなった。

それでもわたしの頭のなかにはいつでも言葉のない物語のワンシーンが流れていた。

物語の断片が、流れては消えていた。


このままでは社会に追いつけず消えるしかないと本当に思っていた。ほんの数か月前の話だ。この頃、Googleで調べるたび「いのちの電話」がトップ結果に出ていた。家族も大切な人もいるから、二択なら生きるしか選べない。

だったら好きなせかいをたくさん描こうと決めた。
出来上がるものはすべて遺作だと思い込んだ。

大層な表現を選んだが、経過として、わたしのネガティブな決意は梅雨とともに流れたようだ。
声をかけていただいたり、応援していただける機会が増えていき、1往復程度の返信ができるようになり、自分でも好きな世界を描ける没入感、嬉しさや楽しさが大きくなった。選択肢に自分を選んで頂ける有難い経験もあり、決意はそのままで気持ちが好転した。


なぜ描くのか。

昔書いた記事と変わっていなかった。
根底にあるのはコミュニケーション切望で、絵を描いて、だれかとおはなししたい。それは幼い頃にできなかったことだ。

自分だけのせかいだったけど、もしかしたらその世界を好きな人がいるかもしれないし、そんな人と絵でこころを通わせられたら嬉しい。

時折絵を描くことが、繋がれなかった頃の贖罪のように感じることもある。
反面、声をかけていただいたり、根気よく応援していただき、活力を頂いている。人がいるから生きていける。

わたしはいま、臆せず好きなせかいを描いている。
幼い頃夢中になったもの。束縛されていたもの。
女の子の絵。リボンを結んだ髪。クラシカルなお洋服。
いま気になるもの。猫、錆びた風景、自販機。

去りゆく記憶の群像と新しい情報を自由にむすんでひらいて、頭のなかのシーンを気が済むまで描き磨き、もういちどつながって、とどけたい。

記憶は宝
遠く近く、外の世界と内の世界
取り出すのも自由自在
記憶から描く物語の断片はわたしのたからもの
ひとつの永遠
わたしの頭のなかの世界が 届く誰かの宝物になりますように


お待たせしました。


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