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【いざ鎌倉(15)】大巨人と女武者 城氏兄妹の戦い

今回は幕府の話に戻ります。
後鳥羽院と『新古今和歌集』については編纂作業がひとまず終わる元久2(1205)年の話として後日につづきを書きます。
前回記事はこちら。

今回は最近何かと流行りな兄と妹の話を。

越後の大巨人・城長茂

平安末期、越後国(新潟県)に、身長2メートル(七尺)を超えると言われる身体の大きな豪族がいました。
デカァァァァァいッ説明不要!!

名前は城長茂
越後平氏の末裔であり、源頼朝や木曾義仲が東国で反乱を起こした際、鎮圧の一翼を担うことを平家から大いに期待された武士です。
しかし、長茂はその期待に応えることができませんでした。
治承5(1181年)6月、1万の軍勢を率いて信濃の国に攻め込むものの、兵力3000の木曾義仲に惨敗。
奥州の会津に逃亡するも今度は奥州藤原氏に攻撃されて惨敗。
大きな身体をもった長茂でしたが、決して軍略に優れた武士ではありませんでした。

しかし、全国各地で反乱が拡大する中、平家は遠く越後まで援軍を送ることはできず、引き続き長茂に期待するしかありません。
同年8月、長茂は越後守に任じられます。
田舎豪族でしかも敗戦続きの長茂が国司に任官することは朝廷では驚きを持って迎えられ、先例と伝統を重んじる九条兼実は「天下の恥」と日記に書いています。

「嫌われ者」に救われた男たち

長茂はその後も越後で勢力を挽回することはできず、平家が都落ちするとともに越後守も解任されています。
源頼朝に降伏し、捕虜となった長茂を救ったのが梶原景時でした。
梶原景時は、長茂の身柄を預かり、頼朝に助命を取りなします。
結果、長茂は命を救われたばかりか、文治5(1189)年の奥州藤原氏との合戦に参陣することを認められ、戦功によって、御家人として取り立てられることとなりました。
この戦いで長茂はかつて敗れた奥州藤原氏へのリベンジを果たすこともできました。

この奥州合戦の際にも梶原景時に命を救われた男がいます。
奥州藤原氏4代目当主藤原泰衡の弟・藤原高衡です。
奥州藤原氏滅亡後、相模国に配流となりましたが、景時の取りなしにより赦免されました。
以後、幕府に客人として扱われ、景時に感謝して鎌倉に暮らすことになります。

恩人を殺された男たちの反乱

正治元(1199)年、梶原景時が鎌倉を追放され、翌年、上洛途上に討たれたことは第12回で書いた通りです。

梶原景時が討たれたことで、景時によって命を救われた城長茂と藤原高衡は後見人を失ったも同然となり、幕府内での立場が悪化します。
かつて敵味方に分かれた2人は梶原景時に命を救われた縁で結びつき、命の恩人の敵討ちを計画するのでした。

建仁元(1201)1月23日、軍勢を率いて上洛した城長茂は小山朝政の京の屋敷を襲撃します。
小山朝政は、景時を弾劾する書状に署名した御家人の一人であり、景時が解任された後の播磨守護でした。
この時、ちょうど京都大番役として鎌倉から京に来ており、景時追い落としの主犯の一人として、長茂の標的にされたものと考えられます。
しかし、小山朝政は屋敷を留守にしており、襲撃は失敗に終わります。
詰めが甘い……
残念ながら城長茂はやはり名将の器ではないのでした。

小山朝政襲撃に失敗した長茂は御所に向かい、幕府追討の宣旨を要請するも拒否されると京を離れ、大和国の吉野に潜伏します。
2月22日、幕府の追手が吉野に押し寄せ、戦闘となり長茂は討たれました。
長茂の挙兵が失敗したことで、一味から離脱して潜伏していた藤原高衡も、長茂の郎党に連れ戻され、その後幕府によって討たれました。

女傑・板額御前の戦い

城長茂が小山朝政の屋敷を襲撃した頃、城氏の本国・越後でも反幕府の火の手が上がります。
長茂の甥・城資盛と長茂の妹・板額御前らが鳥坂城に立て籠もって挙兵します。
幕府は雪深い越後にすぐに討伐軍を送ることができず、反乱は長茂が吉野で討たれた後も継続します。
4月になってようやく幕府は反乱鎮圧を本格化させますが、城氏の激しい抵抗により、幕府軍は敗戦を重ねます。
中でも板額御前は女性でありながら、将として武士たちを指揮し、その弓は百発百中と呼ばれる腕前で、押し寄せる幕府軍に損害を与えました。

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歌川国貞による江戸時代の浮世絵

女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。

と幕府の史書『吾妻鑑』は記します。

しかし、5月はじめの戦闘で板額御前は両股を射抜かれ、捕虜となってしまい、反乱軍は瓦解します。
城氏が籠る鳥坂城の落城により、越後平氏の名門・城氏は滅亡しました。

戦後、板額御前は鎌倉に送られ、源頼家の前に引き出されますが、女性で、しかも負傷していながら堂々とした態度に御家人たちは感嘆し、甲斐源氏の浅利義遠が頼家に頼み込んで妻として貰い受けました。
板額御前はこの後、甲斐で暮らし、戦場に立つことはありませんでした。

後に歌舞伎や浄瑠璃で板額御前の雄姿は語られることとなり、江戸時代には女武将としてその名を庶民にも知られることとなります。

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月岡芳年による明治時代の錦絵


次回予告

城長茂は後鳥羽院や源頼朝のような天才でも英雄でもカリスマでもありません。
凡人と言っていいかもしれない。
でもそういう人物の物語もまた歴史です。

次回は頼朝最後の弟の失脚。
比企氏と北条氏による幕府内の権力闘争がいよいよ本格化します。

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