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シリアから来た子(3)小さな戦い

 2年生になり、F君の日本語は日常生活には困らないレベルになりました。
1年生の時には成績の評価のしようがないということで空白だった通知表も評価をもらえるようになりました。そうはいってもあまり喜べる成績ではむろんなく、かえってそれをお父さんに伝えるのは気がひけるくらいでした。
 唯一の救いは体育で、△が並ぶ中、一際目立って◎です。F君は運動神経がよく、足はクラスで1番か2番くらいに速いらしいのです。

 お父さんは私に「Fにスポーツをやらせたい、センセイ、カラテクラスどこかないか」と聞いてきました。そこで、うちの息子が少林寺という空手に似たものをしているからいっしょに連れて行ってあげると提案し、少林寺道場に連れて行きましたが、丸坊主のいかつい顔の先生と容赦ない練習の様子をみてすっかり怯えてしまいました。もともと気の優しい子でヒーローものよりもプリンセスものを好んで妹と見ているような子ですから、無理だったのだと思います。

 その後しばらくその件はほうっておいたのですが、秋になったころ再びお父さんから頼まれ、小学生向けのサッカークラブに入れることになりました。車が運転できないF君のお母さんにかわって、週に1回はサッカーの送り迎えとなりました。

 ある日一度だけ主人もいっしょにグラウンドまでF君を迎えに行った時の事を思い出します。
「Oh, he is cute, like when I was little! 」                はじめてF君に実際にあった主人が冗談っぽく言い、私がコーチと話している間、F君に手招きをして無言でパスを始めました。全く他人であるアメリカ人とシリア人なのですが、F君の白い肌と栗色の髪がアラブ系には見えず、傍からみればまるで親子のようでなんだかおかしな感じです。英語がまったくわからないF君は車の中でも一言も発しませんでしたが、そのあとF君は、僕はアメリカ人だよといってお母さんを苦笑いさせました。

 それから1,2か月もするとF君は、先生、みてみて、ぼくね、これできるよ、とリフティングを披露してくれるようになりました。内気であまり話さなかった1年前とはうってかわって、自信に満ち溢れています。「みてみて」というF君を母親のようなあったかい気持ちで見ていました。少しでも自慢できるものができてよかった・・。

 それに比べ、勉強のほうはすこし行き詰まりを感じていました。特に算数の文章問題や国語の読解、漢字は進むスピードが速く追いつきません。なにしろスタート地点がみんなと違うのです。同じ1年生でも、日本語がすでにペラペラのネイティブの子たちと、赤ちゃんのレベルの日本語からスタートしているF君ではそう簡単に追いつくわけがありません。

 教えるほうも一筋縄ではいかなくなってきました。文章問題をなんとかわかりやすくしてあげようと説明していると、F君が急に言いました。

「それってじまん?」
 
あまりにも唐突だったので、わたしはすぐに返す言葉もみつかりませんでした。
「・・じまんって わかる?」と問うと、うつむいたまま、しかしあっさりと「わかんない」と答えました。
 こんな言葉を口に出すと言うことは、おそらくF君自信が何回もいわれるということでしょう。使い方が間違っているにせよ、なにか嫌な言葉だということは感じていたはずです。

 子供の世界は厳しいもの。少しでも人から秀でているとことがあってよかったと思っていたのにそれをけなされる。そしてまたほかの人を攻撃する。

 さらにF君は、なにかにつけて「いいじゃん、べつに」を連発するようになりました。冷たい、突き放すような言い方。

「なにそれ?せっかく教えてるのに」と思わず頭をたたきそうになりましたが(実は軽く、グーを頭の上に置いたときもありました)なんとかこらえ、この子はわからずにみんなの真似をしてるだけなんだと自分に言い聞かせました。
 意味がわかったとしても、それは、弱い自分を守るための勇気のストラテジーなのかもしれない・・。

 どうしても勉強がはかどらないときもありました。学校にいきたくない。シリアに帰りたい

「お父さんはね、今シリアに悪魔がいるって言よ」           そういって、宿題のプリントのうらに近所の地図を描き始めました。
「ここがうち、ここはともだちのうち、ここに悪魔がいてね。ともだちはここで、でてきて死んだ。」                      生々しい話です。そしてF君は続けました。              「僕もシリアにいきたい。たたかいたい。」

 家に帰って主人にそのことを話すと、平和な日本で学校に行けることがどんなに幸せかわからないんだなと主人はあきれたようすで言いました。
そう、難民生活を強いられている人々に比べたら日本に来れたことは幸せな事のはず。客観的に見ればそうです。

 しかし、わたしは常に思うのです。しあわせなんて結局相対的なもの、そしてそれは自分の周りの狭い世界で計ってしまうものなのだと。周りからみればつまらない小さな世界かもしれないけれど、それは暗くて出口のみえない世界だったりもするのです。


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