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シリアから来た子(1)無知の幸せ

 前回書いたシリアから来た家族の話になりますが、今回は長男のF君の話です。実はF君と過ごした時期のことを思い出そうとすると、胸がきゅっと苦しくなって涙が込み上げてしまうので、思い出を掘り起こして文字にすると言うのはいささか辛い作業ではあります。それでもここに書いておきたいと思うのは、かっこつけたことを言えば儀式のようなもので、書ききってしまうことで胸の奥で消化しきれなかった思いを、乾いた画面上に葬ることができるような気がするのです。

  F君には約2年半にわたって、ほぼ毎日日本語のレッスンをしていました。最初にあった時、F君は小学1年生の1学期が終わったところでした。公立の日本の学校にいっているというのに、簡単なあいさつと「好き、嫌い」くらいしか話すことができず、こちらから質問をすると「うん」「ううん」とうなずく程度で、本当にわかっているのかも怪しいものでした。それにひきかえ同じ時期に日本に来て保育園に通っている妹は、もうすでにぺらぺらになりつつあり、雲泥の差でした。

  お父さんはアラブ語訛りの英語で私の目を真っ直ぐと見て熱心に語りました。シリアにはいつ帰れるかわからないから、日本で大学までいかせたいので日本語が必要だ。しかし当の本人はまだ6歳、シリアの状況がわかるわけもなく、顔や言葉の違う人達がたくさんいる場所に放り込まれ、お父さんに日本語を勉強しろ、学校に行けといわれても、「日本語」そして「勉強すること」がなんなのかわかっていないようでした。

 子供は子供です。言語は生活と遊びで覚えていくのが一番です。それは生まれた時から家庭や近所の友達、保育園、幼稚園で学んでいくものです。Fくんはその時期をシリアで過ごし、日本に来てからいきなり「勉強する場」である小学校にいってしまったため、その大事なプロセスがすっぽり抜けてしまっていたのです。一方妹のYちゃんは、日々保育園でしっかりと自然と「日本語」と「学ぶこと」が身についていました。

 こうして、わたしの「レッスン」という名の遊びがはじまりました。私はおままごと、塗り絵、釣りゲーム、あみだくじなど、周りからみればただ遊んであげている子供の世話係のようだったと思います。時にはいっしょに文房具を買いに行ったり、そとでボール投げをしたりすることもありました。

 わざとしげみにボールを投げて「どこ?ここ?あったあった。」と大きな声で私が言うとまねをして「ここ、あった、あった」とF君も言います。そんな繰り返しをしているうちに、夏休みの終わりごろには「先生、また明日来る?」「うん来るよ。」そんな風に自然に話せるようになっていました。

 2学期が始まりました。学校が終わる4時くらいに行き毎日連絡帳をチェックし、持ち物、宿題もすべて手伝います。私自身息子が2人いるので勝手は知っています。1学期にはできてなかったことが今は他の日本人の子と同じようにできるようになって、さぞ先生も感心するだろうとなぜか得意げな気分でした。

  秋になり、学校の個人懇談会にお母さんの代わりに行ってほしいとお父さんに頼まれました。おかあさんは保育園の送り迎えはするものの、話せる日本語はあいさつだけという状態のままです。「はい、いいですよ」私は先生という垣根を越えて、少し母親のような気分で学校に向かいました。そこで担任の先生から意外なことを聞きました。

「F君、2学期になってから時折しくしくと泣くんですよ。いえ、その・・いじめられたとかじゃなくて、ただ座っている時に。たぶんね、1学期のうちは日本語もなにもわからなすぎてただぽかんと座っているだけだったのが、日本語がわかるにつれて、だんだん自分が間違ったこととか、みんなと違うなとか、わかるようになったんじゃないかなと・・。」

 ショックでした。今まで気づかなかった周りとの差異に気づいたのです。知る、そして理解すると言うことは、時には酷なことなのかもしれません。

 教室の中みんなの視線をあびながらしくしく泣いているF君の姿を思いうかべるとなんともいたたまれない気持ちになりました。

とはいえ、一度知ってしまったものをまたもとに戻すわけにはいきません。突き進むしかありませんでした。


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