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面白うて、やがて悲しき社会主義

セイコー買イタイ!

私がモスクワ駐在員の生活に慣れてきた頃、クレムリンの前の赤の広場を歩いていると、ロシア人にしては垢抜けた服装の若者が日本語で話しかけてきました。

「スミマセン、今何時ですか?」
「エーと10時5分過ぎです」
「アッ其の時計、セイコーですか?」
「いいえ、ローレックスです」

若者は明らかに落胆して、立ち去りましたが、翌日、大手総合商社の駐在員にこんなことがありましたと報告すると、

「アー、出ましたか、セイコー買イタイ!」

と解説してくれました。
1960年代、当時はまだデジタル時計はありませんでした。
時計はすべてゼンマイ駆動のアナログ時計でした。
情報沙漠のモスクワで、「オメガ」「ローレックス」などのスイス時計や日本製でも「シチズン」などは誰も知らず日本製の「セイコー」が正確無比の腕時計として口コミで広がっていました。
当時日本では3千円ぐらいのセイコー時計は、モスクワでは、200ルーブル(公定レートで8万円)、アルメニア、ウズペクスタンのような辺境の国では800ルーブルの値が付いていたそうです。
其の商社員によれば、「ワタクシ日本語ハナセマス!」といって近づいてくるロシア人の多くは、「セイコー買イタイ!」だけがボキャブラリーということが多いそうです。

でも、アメリカを尻目にスプートニクを打ち上げて、宇宙科学技術の先進性を世界中に見せつけたロシアが、何故、腕時計ぐらいまともなものを作れなかったのでしょうか。

理由は2つあります。

まず、軍事技術は民間に一切流れないというルールです。(これについては、別に一章を設けます。)
二つ目は、国営時計工場のノルマは、メートル法によって規定されていたという事実です。
日本では、今はメートル法ですが、尺貫法というものがありました。英国ではヤード・ポンド法が今でも幅を利かせています。
米国もメートル法というよりは、やや変形したヤード・ポンド法が主流です。ですが、社会主義国家はほとんど例外なくメートル法を使います。
国営時計工場のノルマ(年間生産目標)はトンで規定されます。ソ連邦の会計年度は、暦と同じで12月31日が決算の締日になります。10月ともなれば、時計工場の管理者は、ノルマの達成が今年は難しいことに気が付きます。

「工場長!、年間のノルマ達成は難しくなっています。」
「イワン・イワーノヴィッチ君、全生産ラインで、置時計と柱時計を生産したまえ!」

かくして、重量がない腕時計は生産中止となり、ずっしりと重い置時計が量産されます。ノルマがトンで決まっている以上、これ以上の対策は考えられません。
生産工場は、時計を2000トン作るのが仕事で、国家の機関に生産物を、引き渡した後は、それが売れようが売れまいが、自分は預かり知らぬことなのです。

かくして、日本製セイコー時計の価値は、金本位制における金の延べ棒のようなものになります。

当時、「日ソ経済合同委員会」というものが、東京とモスクワで1年交代で開催されていました。メンバーは、ソ連邦政府の経済閣僚と日本の経団連の代表です。
私が赴任してきた翌年はモスクワ開催でした。
日本側代表は経団連の土光会長、次に、経団連副会長の当社の安居会長という顔ぶれです。
2月の厳寒期開催ということもあり、本社からは

「あらゆる業務に優先してアテンドするよう」

指示がきていました。
私は熟慮の上、「国賓待遇で訪ロされる安居会長の手荷物検査はないので、セイコーの婦人用および紳士用腕時計を各10個づつ託送願います。」と要求しました。なぜ20個づつを要求しなかったかといわれると、わかりません。
「何事もやりすぎは良くない」程度の考えでしたが、セイコー時計の20個は三年間のモスクワ駐在で、「開けゴマ!」という呪文のように、私を支えてくれました。

時計に関するアネクドウト(ロシア小噺)

ロシアの小噺(アネクドウト)は、もっぱら酒の席で披露されますが、政治向きのものとお色気関係の二つに分けられます。
政治向きの傑作はほとんどがユダヤ系ロシア人の作と云われています。日本製の時計にまつわるものもあります。

アメリカからロシアの犯罪に関する調査のため調査団が訪ソしてきました。(ありえない設定ですが・・)モスクワ近くの刑務所を訪問してた調査団は、収監されている囚人をインタービューします。

囚人A
「貴方はどのような罪で逮捕されましたか?」
「事務所に15分遅れて出勤しました。」
「罪名は?」
「サボタージュと云われました。」

囚人B
「貴方はどのような罪で逮捕されましたか?」
「事務所に15分早く出勤しました」
「「エッ何故つかまったのですか?」
「スパイ容疑です。」

囚人C
貴方はどのような罪で逮捕されましたか?」
「事務所に9時きっかりに出勤しました。」
「何がいけなかったのですか?」
「日本製のセイコーを闇市で購入した容疑です。」

なかなかの傑作だと思いました。

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