お父さんと私⑦ 病気を治すことが全てじゃない
家に帰ってきた父が、私に最初に言った言葉、
「孫がこの家で走り回っている姿を見たい」
その時は、あまりに突然だったので、「走り回るには4年は生きなきゃね」とか冗談まじりに言っていたが、
この言葉は、なんだかとても重かった。
私もそれを望んでいたからだろう。それが現実になりそうにない今、重かったのだ。
それでも、父の生きる希望になるなら、と、そんな動機で子どもを望むようになった。
父はひとつ論文を書き終えたようだ。何週間か後、その論文が載った誌が父の元に届いた。それきり、父は仕事の手を止めた。横になっている日が多くなった。
夏になった頃、また事態は一転する。平和だった毎日が一瞬で遠ざかる。
父が入浴中、出血が止まらなくなった。2回目の救急車に乗り、2日間、病院で輸血を行った。
ここから、父の様子は変わった。横になっている時間も多いが、横になって休むというより、眠っていることが多くなった。
トイレに行くことすら辛くなった。大好きなお風呂はもっと難しい。食事もリビングに行くのが大変なので、書斎のベットの上になんとか起き上がり食べていた。
私が実家に帰るときには、父にレイキを送っていたが、ものすごいビリビリする。気をどんどんほしがっているのだろうか。がんが転移した肺に手を当てると、心臓が必死で動いているのが分かった。ものすごい速さで…トントントントン…と、マラソンをした後のような速さで動いていた。
ああ、身体は頑張っている。父の身体は、父を生かそうと頑張っている。
そんな風に感じた。長く眠る父と一緒にいると、自然に涙が流れてしまった。幸い父は眠っているので、気づかれずに済んだ。
このころ、もう、「病気を治す」という気持ちが、私にはなかった。父の死を受け入れていたわけではない。だけど、「治す」というのは、もう、違うのだと思ったし、今、ここに父が存在していることで、その事実だけで、充分だ、という、なぜだかそういう心境だった。
母は父がよくご飯を食べてくれたりすると、「今日は栗ご飯にしたら、たくさん食べてくれたよ」と嬉しそうにメールをくれた。母はとても強いなあと思った。
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日記から
私の中の私へ
お父さんがお腹から出血して、病院で輸血を受けました。なんとか無事帰ってきたけれど、寝てばかりで不安になります。眠っているのです。
私は、悲しい状態になることを想像してしまいます。どうしたらいいでしょう。
お祈りするしか、私にはできません。
どんなお父さんだって好きです。生きてさえいれば感謝します。
でも、やはり、話せなかったり、ごはんが食べられなかったりは、辛くなるのです。
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日記から
小林麻央さんが亡くなった。Yahoo!ニュースでタブレットに速報が流れた。見た瞬間、ショックが身体全体をかけめぐった。
他人事では、なかった。
ブログを見て徐々に治療を施すことができない身体になっているようには感じたが、それでも元気そうな笑顔に「生」を感じた。突然すぎて涙が出た。
それでも彼女が生きて残したものは数多い。人も変えた。人の生き方を変えた。希望を与えた。
人は、生死の前では、他のことはどうでもよくなる。
大切なことなど、どうしても守るべきことなど、無いように思う。
生きていればそれだけでありがたく、
苦しくなければなおさらありがたい。
もうだめだ、と思えば、その力が勝ってしまいそうで怖い。
どうすれば良いだろう。それでも祈っていたいのに。
「病が治る」という考えは、私の中に正直もうない。
治らなくていい。病と一緒に、できるだけ穏やかに生きていてくれれば、それでいい。これは、エゴだろうか?
それでも祈る。私は祈る。祈ることしかできないのだけれど、そんな自分を許し、祈ろう。
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※今振り返ると、レイキをすることが私の身体にとっていいことなのか、疑問に思う。父にしてあげることがあって良かったとは思うのだけれど、かなり気持ちが入ってしまったので、自分の氣を相手に渡してしまっていたかもしれない。そうすると自分は消耗してしまう。おそらく父の持っていた、「邪気」みたいなものもたくさん受けただろう。
なので敢えてレイキはおすすめしません。(レイキが悪いと言っているわけではないですよ^^)平常心でできること、自分のエネルギーをしっかり補充できること、自分を守ることが、必要だと思います。自分自身を犠牲にしてしまってはいけないので。。。
お父さんと私⑧に続く
かわいい画像お借りしました。このシリーズでいつもお世話になっています。ありがとうございます☺
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