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教員養成系の教育学部に通う人へ

先日、SNSでこんな投稿を目にした。

これに関連して、今日はちょっとした回顧録記事を書く。


ぼくは地方国立大学の教育学部に通っていた。
地方国立大学の教育学部といえば、基本的には教員養成が主眼に置かれている。
特にぼくは、その名もずばり「小学校教員養成課程」に在籍していたため、周囲は教員志望の学生が多かった。

教員を志す者に、「学校が嫌いだった」という人は少ない。
学校のカルチャーにうまく適応し、勉強や遊びなどをそつなくこなしてきたタイプがほとんどである。
不登校傾向にあったとか、教師にものすごく反抗していたとか、学校に対してネガティブな記憶を持つ人は、例えそれが教員という立場であっても、学校に戻りたいとは考えないからである。
すなわち教員を志す人間は、楽しい学校生活を送っていて、再び学校のカルチャーの中に身を置きたいと考えている人が多い。
もちろん例外はあるだろうが、あくまでもそういう傾向にあるという話。

教員養成系の教育学部に通っていたため、ゼミは教育方法論の系統が多かった。
「特定の教科や単元に関して、どのような工夫をすれば児童や生徒に対して効果的に教授できるか」ということを研究するのだ。
ところが、当時のぼくは学校現場には一切興味がなく、教育のシステム自体に強い関心を抱いていたため、学部の中では異端の扱いを受けていた「教育哲学」を選択した。

ゼミの先生は、助教として採用されたばかりのまだ若い男性研究者だった。
端正な顔立ちでスタイルの良い彼は、たちまち女子学生の間で注目の的になった。
しかし、もともと彼は政治哲学の研究者で、講義の単位取得条件がやや厳しかった(他の講義の課題がぬるすぎたという説もある)ため、彼の講義はあまり人気がなかった。

そんなわけで、教育哲学ゼミは学部の中でも完全に浮いていたのだが、そこに集まる学生も異端児ばかりなのだった。
先ほど書いたように、教員を志す人間は学校に対して好印象を抱いている人が多い。
かく言うぼくも、小学校から高校まで、嫌な記憶よりも楽しかった記憶の方が多い。
しかし、彼らは揃いも揃って学校嫌いな人たちで、「そもそもなぜ学校に行かなければいけないのか」なんてことを考えているのだった。
そんな彼らと議論をすることは、新鮮で刺激に満ち溢れていた。

ここで冒頭のSNSの話に戻るのだが、彼らとの議論の中で頻繁に取り上げられる「学校ディス」がまさにこれなのだった。
誰かの発表に対して、周りの児童が「合ってまーす」とか「違いまーす」とかいうルールが嫌でたまらなかったと主張するのだ。
ぼくはこの話を初めて聞いた時、「そんなことあったかな?」と疑問に思った。
たまたまぼくの担任の先生たちがこのシステムを採用していなかったのか、このシステムが存在していたとしてもぼくが気にならなかっただけなのかは分からない。

この「合ってます・違います」システムは一例だが、世に蔓延る「教室ルール」に対して不快感を抱いていた人たちがいることを知って、ぼくはいかに自分が無意識で無自覚だったかを思い知ったのだった。
それから今に至るまで、自分が導入しようとしている「教室ルール」にどのような教育的効果があるか、それに対して不快に感じる児童や生徒がいないか、他にもっと良い方法はないかをなどを熟慮するようになった。

教育哲学ゼミに在籍していた2年間は、大袈裟な言い方をすれば、学校嫌いの人たちと対話をした初めての機会だった。
教壇に立つ前に、このようなことを深く考えることができたのは、とても良かったと思っている。

何度も繰り返すが、教員養成系の教育学部に通う人は、学校が好きだったという人が多い。
少なくとも、学校に対してネガティブな印象は強くないはずだ。
周囲は同質な学生が多く、既存の学校システムを批判的に捉えているという人は少ないと思う。
教員になる前に、学校が嫌いだったという人と議論を深め、「そもそも学校とは何か」といったことを考える機会をもつことはとても重要なことだと思う。

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