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サスペリア

小学生くらいの頃にテレビで放映されているのを観て、まるでトラウマのように記憶に刻み込まれたおそるべき映画。久しぶりにまた鑑賞してみた。

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ところで少し前のことだけど、近年制作されたリメイクがアマゾンプライムのラインナップに追加されていたのでちらっと見てみたのだが、数分で見るのをやめたということがあった。「ティルダ・スウィントン出演」とか「音楽はトム・ヨーク」とか、結構期待値は高かったのだけど、見る価値がないということが分かったから最後まで見なかった。時間の無駄であると判断した。

たった数分見ただけで何が分かるのか、というのは正論だ。確かに映画は最後まで見なければ正当な評価はできないだろう。だからリメイク作品の方について僕は正当な評価をするつもりはない。「僕個人にとって価値がない」という「判断を下した」だけであって「評価」はしていない。だからリメイク版についてこれ以上語ることは特に無い。

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オリジナルの「サスペリア」は冒頭の数秒だけでも「特別な映画」であるということが分かる。ゴブリンによるシンプルでありながら荘厳かつ不気味な音楽と(あの印象的な旋律は実は DEFG のたった 4 つの音だけで構成されている)、アンバランスなフォントによる「SUSPIRIA」のテキスト。そして空港からスージーが降り立つまで、わずか数分の流れだけ切り取ってもこの映画がそんじょそこらのホラーとは比べ物にならない、別格の映画であることが分かる。

そしてその冒頭から演出される極度の緊張感は実に15分近く途切れることなく継続し、ショッキングなシーンへと導かれる。

この「初っ端から問答無用で観る者を惹きつける力」がリメイク版には無かった。それだけでもう見る気が失せてしまったのだ。僕にとってはあの導入があってこその「サスペリア」だから。

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二十代前半くらいに、僕はヴィスコンティ監督の「夏の嵐」を鑑賞している。もう内容はすっかり忘れてしまったけれど、主演のアリダ・ヴァリに一種異様な印象を抱いたことは覚えている。ヒステリックで鬱陶しいというだけではない、何か得体の知れない不気味さ。

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その時点で僕はアリダ・ヴァリが「サスペリア」に出演していたことを知らなかった。もしかしたら彼女がそんなに怪しく見えた理由は、「サスペリア」のときの面影が僕の脳裏に余りにも強く焼き付けられていたからなのかもしれない、と今になって思う。

今見返すと、自分の脳内で過剰に悪夢的演出が施されて記憶していたことに気づく。エンディングの展開などはまるで僕の記憶とは違っていた。実際は存在しないシーンまで捏造されていた。何か他の映画と混同してしまったのだろうか。

今の年齢で初見であったなら、トラウマのように記憶に刻み込まれれることはなかったかもしれない。それでも僕は少年の時にこの映画と出会った。誰もいない居間のテレビで一人きり、夕方の時間帯で食い入るように眺めたあの体験の余韻はいつまでも消えずに残っている。

何かを深く考えさせられる映画ではない。でもこれもまた、人生に寄り添う映画の一つのかたちなのだろう。

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