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「正しさ」の揺らぎ

「正しい」という言葉は使いどころが難しい。なぜなら「正しさ」の定義には揺らぎがあるから。共通の定義を前提にしないと会話が成立しない。

もう何十年も前のことだと思うけど「正しい道を歩んでいきたい」という僕の言葉に突っかかってきた人がいた。「正しいって何?」と。何が正しくて何が間違ってるのか、それをお前に決める権利は無い、というような主張だったと記憶している。

あのとき僕が言いたかったことは「僕個人が正しいと信じる道を歩んでいきたい」というニュアンスだった。そして「僕にとって正しい」ことが誰に対しても等しく正しいなどとは思ってもいなかった。けれどうまく言語化できずに変な空気になったことだけは覚えている。あの先輩元気にしてるかな。変な空気にはなってしまったものの、その先輩の持つ「秘めた熱さ」のような部分は決して嫌いじゃなかった。

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正しさに揺らぎがあるとは言ったものの、ほぼ全ての人間と共有できる正しさが全く無いわけではない。法治国家の日本において「法」は正しさの基準となる。「盗みは正しくない」「殺しは正しくない」「痴漢や盗撮は正しくない」と誰もが声を揃えて言えるだろう。

ただし一時話題になっていた私人逮捕系 YouTuber のような人々は「正しさに取り憑かれたモンスター」だと僕は認識している。分かりやすい物差しの上でしか呼吸できない特殊生物なのだと思う。誰に頼まれたわけでもないのに、正しくない行為を無作為かつ能動的に探索し、力によって制圧し、それを動画に収録・編集して公開する。何が彼らをそのような行為に駆り立てるのか。僕には全く理解も共感もできない。率直に言って「病気なんじゃないか」と感じる。

しかしそれは極端な例で「正しさ」が産み落とした一種の異形と呼べる存在だけど、身近にもいると思うんだよね。正しさを振りかざしてしまう人。若い頃の僕は典型的だった。仕事でもプライベートでも「自分が正しい」と信じたことは絶対に曲げないし、それを相手にも押し付けていた。「自分を曲げない」ということは悪いことじゃないけど、それが「議論の余地が無い」というレベルの強度になると、やっぱり煙たがれるし対話を断念せざるを得なくなる。

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僕は自分の考えが「僕にとって正しい」と思っているけれど、その考えと正反対の考えもまた等しく「あなたにとって正しい」のだろう。それを前提として、出発点として、共有できるなら議論の余地はある。

自分の正しさを信じて貫き通すために、必ずしも他人の正しさを頭から否定する必要は無い。

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