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美しき必然

詩人を志す悩める若者にリルケが贈った言葉。

ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へ掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立ててください。

果たしてリルケは「生涯を必然に従って打ち立てる」ということを「それを生業にする」という意味で伝えたかったのだろうか、ということを時々考える。必ずしもそうではなかったんじゃないか、と僕は思う。

「書かねばならぬ」
「歌わねばならぬ」
「撮らねばならぬ」

人それぞれ色んな必然のかたちがあるだろう。それがどんなかたちであれ、僕は「必然に従っている人」に魅了される。文章でも音楽でも写真でも。そして僕にとってそれは必ずしも「生業にしている」と同義ではない。生業にしている人が常に必ず必然に従っているとは思えない。

相互フォローしている桃子さんが、僕の投稿を「2019年のベストnote」として紹介してくれた。ヘッダーも僕の写真を使ってくれている。コメントでお礼の言葉を、と思ったのだけどとても長くなりそうだったのでこんな記事を書いている。

その出来事自体はとても意外なことで驚いたし、誇らしいことだし、純粋に嬉しかった。一方で誤解を恐れずに言うなら僕のその記事が、明らかに冒頭に引用したリルケの文章の影響下にある僕の言葉が、桃子さんに一定の力を伴って響くことは、これは僕からの一方的な見方ではあるけれど、とても理にかなっていることのように思えた。

なぜなら桃子さんは、この note という場において、誰よりも己が命じる必然に従ってことばを紡ぎ続けているひとだと思うから。おそらく桃子さんであれば、リルケの問いかけに対して「書かねばならぬ」と力強く答えられる。そんな気がする。

どんなできごとであっても、ことばにすると、わたしにとっては尊いものとなる。
そのこと自体に救われるし、救われたからには何よりも丁重に扱いたい。
書けば書くほど、この身が浄められるような気がする。

なぜ?ということは僕にはわからない。僕にわかることは彼女には「書かねばならぬ」必然があるということ。必然を内包し、その必然を自覚しているひとだということ。

最後にふたたび、リルケの言葉を引用したい。

必然から生れる時に、芸術作品はよいのです。こういう起源のあり方の中にこそ、芸術作品に対する判断はあるのであって、それ以外の判断は存在しないのです。だから私があなたにお勧めできることはこれだけです。自らの内におはいりなさい。そしてあなたの生命が湧き出てくるところの深い底をおさぐりなさい。その源泉にのみあなたは、あなたが創作せずにいられないかどうかの答えを見いだされるでしょう。


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