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自分の背後から自分を見た時

先日、勧められてNPOゲシュタルトネットワークジャパンの「1日体験セミナー」へ参加した。

ワークの中で、自分の座布団を置いて…少し後ろから(感覚としては自分の背後から自分を見る感じ)それを見た瞬間、こみ上げるものがどんどん溢れて涙も止まらなくなった。

(ファシリテーター)『なんて声をかけてみたい?』 その言葉に

よく頑張ったよね、、、本当に頑張ってきた

もう、それしか出てこなかった。

停滞中の状況から少しずつ再始動した(したい)と思っているのに、仕事でも、趣味でも、生活そのものも、とにかく重苦しくて、なかなか進めない。(趣味にしたって、ハチの出現もあり躊躇している…)
なんで!?と受け入れがたく思っていた…けど。

とにかく痛々しいくらいに疲れ切っている自分がそこにいた。

今までなら、自分を外から眺めてみた時に、もっと力を抜いて!軽やかに進んでもいいんだよ〜、などと声をかけていたかもしれない。もしくは、もっとやれることあるよね、と叱咤激励したかもしれない。
でもそれって、疲れ切っていることを受け入れていないということでもある。

今回は違った。
やっぱり前に進めるエネルギーが今はないんだとわかった。
その現状を、やっと!…自分が認め、受け入れたような感じだった。

そんな状況では、ずっと先の大きなビジョンや、目標など描けるはずがない。休むことは、やっぱり必要で…必然だった。

ボロボロのわたし自身を、わたしが受け入れていなかった。
不安や恐れからの行動や、自分ができないことを隠したくて(できないことで迷惑かけることへの申し訳なさもあり)色々頑張ること。それらが止められなかった。
だから、身体がストップをかけてきた。
わかっていたつもりだったが、腑に落ち感が違った。降参、に近い感じ?

同時に、感じたもの。
それは自分でないものになろうと頑張っていたのかもしれない、ということ。
ひとり親であっても経済的安定を保ちたかった。専門職として、管理職として周囲に認められる存在でないと、居場所がない(=孤立無援)ような気がしていた。
認められたり、役割をまっとうできたり、感謝されても、嬉しさや達成感よりほっとする気持ちが強かったし、周囲との関わりで相手がネガティブな気持ちになることが怖くて、どこか演じている感じもしていた。
純粋に「一人前になりたい」「良い仕事をしたい」「心地よいコミュニケーションをとりたい」という気持ちよりも、存在を認められるために、「模範的にならないといけない」と頑張っていたのかもしれない。
今までも、気づいていなかったわけではないが、やはり思考の中でのことだったように思う。
今回、やっと、感覚としてそれを受け入れられそうな気がした。
もう、「存在(生存)するために頑張り続けること」は限界なのだ、と。
それもあくまで私の解釈なのだろうけど、自分の納得感は大事だと思う。

一方で、まだ、頑張らなくていいよ、そのままでいいよ…というところには行き着いていないような感覚もある。
『生まれた時からずっと不安を感じていたのなら(そこから脱するには倍の時間がかかるというし)、一回ですぐに変わるのは難しいよね。でも、いま”気づいた”ということなの』(ファシリ)

焦っても仕方がない…としても、この「認めざるをえない」感覚は大切にしたい。

*****

何もしない、頑張らない、リラックスできるという状況も、ファシリテーターと一緒に描いてみた。
最初居心地が悪かったその場所は、
森のリトリートで®︎体験した、あの感覚を思い出した時(そういえば忘れていた)に…

一気に幸せな場所に変わった。
表情が明らかに変わった、穏やかになったね〜と言ってもらった。

森リト®︎で得た感覚とは、自然と自分とのつながりを思い出して、自然(地球?)に受け入れられたような感覚、であった。
それは、そのままで居てもいい、という、まさに自分が求めている感覚なのだろう。
これも自分の引き出しの中に入れておきたい。

そのままでここに存在してはいけない、という思いグセがどこからきているのか…は、過去に掘ってみたことがないわけではない。でもまだ思考レベルに留まっていたような。
それが未完了として今後再び「図に上がってくる」のか、来ないのか。
あえて深掘りするというよりは、図に上がってくるのを待ってみよう。

それまではひたすら自分の今ここ、そのままの自分、それらを感じて、気づくことを続けていこうと思っている。

追記。
書き終わって…前回の記事と同じようなことを書いているなと気づきました。
前回の投稿のあとにワークショップに参加しています。