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まちに生きる、まちに根付く

前回のnoteの更新から1年以上が経過し、
つまり転職してからもうすぐ1年が経過する。

忙しく働く毎日だが、ありがたいことに、心が摩耗している感覚はなく、ある程度納得感のある毎日を過ごせている気がする。

それは、環境が変化する中で、これまでできているようでできていなかった、周囲から求められる正解以外の答えを、自分の心で「選ぶ」経験を積み重ねてこられたからかもしれない。

 *

この度、6年半住んだ家を出て、違うまちで暮らすことになった。

私は「まち」へのこだわりと思い入れが強い。

確実に誰かの日常がそこにあるということに、妙な安心感を抱く。

休日に乗り鉄をやるのも、沿線のまちで知らない人々が普通に暮らしていることや、そこにある誰かの当たり前を感じることで得られる、不思議と穏やかな気持ちを求めているからだ。
自分の非日常は、誰かの日常でもある。

今住んでいるまちも本当に大好きなのだ。

大都会エリアのほど近くでありつつも、活気ある商店街があり、昔ながらの素朴なお店もたくさんある。
駅前の立派な藤棚には春になると熊蜂がたくさん飛ぶ。
そんなまちの息遣いを感じながら、苦しい時期も穏やかな時期もここで暮らしてきた。

しかし、前職で「地域住民のつながりづくり」を謳う立場だった私だが、今住んでいるまちに知り合いはおらず、隣の住民の顔さえ知らなかった。
マンションでボヤ騒ぎが起きた時も、住民たちは誰も言葉を交わすことなく粛々と外に避難して、全員が下を向き各々スマホを触っていた。


愛着を感じるものの、ここに「いる」のに「いない」感覚になることが何度かあったのだった。


そういうわけで、まちと微妙な距離感を感じながら過ごしていたのだが、
半年ほど前から腰の調子が悪く、近所の商店街の中の整骨院に通うようになった。
非常に地元に密着した院で、様々な世代の人が出入りする。

体をほぐされ、ゆるめられながら、
他の人の話がなんとなく聞こえてきたり、自分も好きな野球選手のことや日常の出来事を先生にポツポツと話したり、時には先生を介して隣の人と話題の共有がなされたりする。

無益無害、顔もよく分からない地域住民たちとのゆるやかなつながりを感じることのできる空間なのだ。

先日、先生方に引っ越しの件を伝えると「えー…そっか、それは寂しくなりますねぇ」と言われ、
たとえ社交辞令であっても、お得意さんの離脱を悔やむダダ漏れの心の声であっても、
そんな言葉のやりとりができることや、
私がこのまちで確かに暮らしたことを知っている人がいる事実に、妙なあたたかみと、このまちに少し自分の根が生えた感触を得たのだった。

衰退も発展もしない、それぞれが「ただそこにいる」だけだけど、なんとなくつながっている。
そんなゆるやかな人やモノや土地との関係性をこれからも大切にしたい。

きっと、もっとここにいて、深く根を張ることだってできる。でも、少しだけ根付けた感触があるからこそ、次の一歩を踏み出す気持ちになったのかもしれない。

今週末は、このまちで住民として過ごす最後の休日だ。
少し足を伸ばして他県のハンドメイドマーケットに行く予定をしていたが、
やっぱり近所を散歩でもしながらゆっくり過ごすのもいいかもな、と思っている。

このまちに来たばかりの時は、そんな予定を乱す選択ができる自分だっただろうか。覚えていない。
でも、確実に言えるのは、今の自分は、週末の過ごし方をその時々の気分で「選ぶ」自分になれている。

次に生きるまちでも、
ささやかな根っこを生やし、その中で心地よい人や土地とのつながりがもてますように。

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