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永遠の出口への入口にて|森絵都『永遠の出口』

あなたの青春とは?と聞かれれば、
犬の散歩。と答えると思う。

中学時代は家に帰ると当時飼っていた犬を連れて近所のそこそこ大きな公園にて一人と一匹でぷらぷらと晩ごはんまでの時間をつぶしていた。その風景が何よりも真っ先に浮かぶのだ。

私は国語のテストでの「作者の意図するところを次の選択肢より選べ」には迷わず正解を選ぶことができたし、「登場人物の心情を30字以内で記述せよ」にはさらさらと鉛筆を走らせることができるような子どもだった。

特に目立つわけでもリーダーシップをとるタイプでもないのに部活では顧問の先生から一方的に任命される形で部長になり、その役割を引退するまできっちりとこなしていた。
学校にも休みなく通い、受験勉強にもまっとうに打ち込んだ。

行間をばっさり省くと、一見「ちゃんとした」文脈で語れる私の10代前半であるが、やはり今残っているのは、たくさんの仲間に囲まれたきらきらした優等生な自分などではなく、スヌーピーと肩を並べるチャーリー・ブラウンのような、たった一匹のビーグル犬に歩幅を合わせてぼんやりと夕方の公園を歩き回る自分である。

犬の散歩は、私にとっての大切な「逃げ場」であった。
では、一体、何から逃げていたのか?


そんな記憶を掘り起こすきっかけをくれたのが、先日読んだ森絵都さんの『永遠の出口』だ。

この小説は10年以上前、まだ学生の頃に一度読んだことがあり、当時は自分とは全然違う青春時代を過ごす女の子の成長物語を他人事としてサラッと読めてしまっていたが、今読むとどんな感想を抱くだろうと興味本位で改めて手に取った。

主人公の紀子が、章を進めるごとに子どもから大人に近づいていくプロセスを描くというシンプルなストーリーであるが、紀子の心の動きや周囲の人々との関係性が妙になまなましく、最初から最後まで、これぞまさに10代とでもいうような不安定さの上で物語を読み進めていくことになる。

軽い気持ちで読み始めたアラサーの私は、序盤から脳みその引き出しを片っ端からひっくり返される、いや、えぐり返される気分だった。

子ども社会特有の無邪気な残酷さから始まり、痛々しい支配や洗脳、同調圧力の脅威、正義の敗北、悪意なき親のエゴ、計り知れぬ他人同士の関係性、身近な者に抱く身勝手な期待と裏切られ感、恋人との距離感の難しさ、バイト先で目の当たりにする正規と非正規の立場の差異、善意の恐ろしさ、大人と子どもの埋まらない溝…

各段階において、紀子は世の中に蔓延る不条理や自身の未熟さと矛盾に出会い、傷つき、受け入れたり拒否したり戦ったりしながら日々をくぐりぬけていく。

紀子の経験は自分自身とは重ならないが、きっと過去の私も同じような違和感や不満、傷、疑問を意識のずっとずっと奥に抱え、そこから逃げるために毎日犬の散歩に繰り出していたのかもしれない。形は違えど本質は同じだ。


時は流れ、大切な相棒であった犬が約14年半の生涯を閉じたのは、社会人2年目の終わりに過労で倒れて休職し、家族とも距離をとるためにひとり暮らしを始めたばかりの時だった。

“それから長い年月が流れて、私たちがもっと大きくなり、分刻みにころころと変わる自分たちの機嫌にふりまわされることもなくなった頃、別れとはこんなにもさびしいだけじゃなく、もっと抑制のきいた、加工された虚しさや切なさにすりかわっていた。どんなにつらい別れでもいつかは乗り越えられるとわかっている虚しさ。決して忘れないと約束した相手もいつかは忘れると知っている切なさ。多くの別離を経るごとに、人はその瞬間よりもむしろ遠い未来を見据えて別れを痛むようになる。”
―森絵都著『永遠の出口』単行本p.99


家族と大きく衝突することも逸脱することもなく違和感だけを抱えて社会人になった私は、今や滑稽なほど潔く、当時の分を取り返すようにたくさんつまづきまくっている。
せめて紀子のように分かりやすくグレていればまた違っていたのかもしれないとも思う。

しかし、こんな年になってようやく、少しずつではあるが、与えられた「正解」に対する違和感を無視しないで別の選択肢を視野に入れることができるようになっている。

“惜しむべき対象が物理的なものから離れていくにつれ、私は自らの精神を掘り起こす作業へと傾いた。”
―森絵都著『永遠の出口』単行本p.293

つまづきに早いも遅いもない。
ちゃんとつまづいて自分の頭で起き方を考えられる大人になる。
今はそんな入口に立てていればいいなと思う。

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