嫌われない勇気 1章 「人の目を気にしろ」
書斎に入ると青年は、味噌汁の染みだらけの椅子に腰をかけた。彼はなぜ、これほどにも哲人の持論に拒絶反応を示すのか? 理由は明白だった。青年は幼い頃から自分に自信があり、出自や学歴、さらには容姿についても強い優越感を持っていた。そのおかげだろう、過剰なほど他者の視線を気にしないところがあった。傲岸不遜、天上天下唯我独尊、これこそ彼の生き様である。そんな彼にとって哲人の主張は到底受け入れられるものではなかった。
「人の目を気にしろ」
青年 先生はとても人の目を気にしてらっしゃいますね。
哲人 もちろんです。他者にどう見られるか? こればかりを四六時中、考えています。
青年 私はまったく気にしません。誰の意見にも惑わされず、嫌われることを恐れず、自分の意見を曲げません。自分に絶対的な自信があるからです。
哲人 そんな人はわざわざウチに来なくても、そのまま生きてればよかったんじゃないですか?
青年 先生みたいに弱々しい人間を更生するために来たのです。
哲人 余計なお世話なんですがね。まあ、とにかくあなたは人の目を気にしないのですね?
青年 そうです。「人の目を気にするな」系の自己啓発本はすべて読みました。そして、ついにマスターしたのです。
哲人 なるほど。君はエロ本を買うことはありますか?
青年 え!? ええ。たまに……
哲人 それを買うとき、レジに男と木村文乃似の美女がいたらどっちに並びますかね?
青年 ええと……男の方かな。
哲人 ほら、気にしてるじゃないか。なぜ美女の方に並ばないのです?
青年 そ、それは相手が嫌がるからですよ!
哲人 違います。それは美女に対して「自分は紳士だ」と思ってもらいたいからなのですよ。
青年 な、な、なんですって!?
哲人 あなたはエロ本を買うところなんて美女には見られたくない。スケベな男だと思われたくない。だから男の方に並ぶんです。
青年 ち、違います!
哲人 いいえ。違いません。今も君はジーンズに格好良いジャケットを着ているが、「人の目を気にしない」なら、なぜそんな小綺麗な格好をする必要があるのかね? 田舎のヤンキーみたいに上下グレーのスウェットを着たらいい。
青年 最低限の身だしなみってのがあるからですよ!
哲人 最低限の身だしなみって何でしょう? 田舎のヤンキーにとっては上下グレーのスウェットだって立派な最低限の身だしなみです。
青年 そ、それは極論だ!
哲人 極論ではありません。「人の目を気にしている」からこそ、最低限の身だしなみという大義名分を見つけ、しっかりオシャレをしているんじゃないですか。それで人の目を気にしていないとは言わせませんよ。
青年 ちょっと待ってください。私はオシャレが好きで、他人にどう見られようがどうでも良いのです。自分の満足のためにやってることです。
哲人 その「オシャレが好き」というのも人の目があるからこそ、成り立つ趣向でしょう。街にあなたひとりしか存在しないとして、それでもオシャレをしますか?
青年 う、それは……
哲人 うふふ。
青年 い、いや。まだありますよ。私はこの前、会議で上司に反論しました。昔気質の人間で、部下に口答えされるのがすごく嫌いな上司に、です。人の目を気にしていたらこんなことは到底できないでしょう。
哲人 なぜ反論したのですか?
青年 もちろん会社をよくするためです。
哲人 違うでしょう。同じフロアに女子がいませんでしたか?
青年 ちょ、ちょっと待ってください。私は女子にモテたいから格好をつけて反論をしたのだと、そう言いたいのですか?
哲人 まったくその通りです。
青年 ち、違います! たしかに、私はその女子が気になりますし、会社のため、というのもちょっと違う気がします。本当は成長の証を、本を読んだ成果を発揮したかったのですよ!
哲人 なぜ成長したいのですか?
青年 なぜって……成長して、立派な人間になって……
哲人 なぜ立派な人間になりたいのですか?
青年 う、う……
哲人 なぜですか? なぜなんでしょうかね? 早く答えてください。
青年 ……モ、モテたいからです。「すごい」と皆に思ってほしいからです。
哲人 ふふふ。それでいいのですよ。人の目、というのは非常に大事なことです。人の目があるからこそ、立派な人間になろうとも思えるし、頑張ろうと思える。
青年 たしかにそうかもしれません。
哲人 「人の目を気にせず生きる」なんて人間には不可能なのです。大体、「人の目を気にするな」系の本の著者も人の目を気にしているからこそ、本を出すのです。有名になって金や名声、女が欲しいからです。それ系の著者ほど人の目を気にしている人はいませんよ。
青年 ……………
哲人 あなたは実のところ、人の目、特に女子の目を気にしまくるドスケベ野郎なのです。でも、それでいいのですよ。それが自然なことです。さあ、人の目、私のように大いに気にしましょうじゃありませんか。わたしは久々に家を出るときは、2時間くらい身支度しますよ。
青年 一体なにをしてるんですか?
哲人 服のチョイスだったり、鼻毛を丹念に抜いたり、です。
青年 (こんなオッサン、誰も見てないと思うけど)
青年は哲人のドヤ顔を睨みつけた。何度見ても腹の立つ顔だ。まだだ。まだまだ議論したいことはある。是が非でも論破してやる。青年の顔はみるみる紅潮していった。
働きたくないんです。