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『稽古』初日 2022/2/10

参加された俳優さんは男性2名、女性6名。使用したテキストは別役実さんの小編二つ。


最初に私が『稽古』をしたいと思った経緯のようなものを徒然に話す。その後、俳優さんによる自己紹介。一旦マスクを外していただき、無言で顔だけ見せていただいてから、改めてマスクをつけた状態で自己紹介をしていただくという流れ。この、一旦マスクを外し無言で顔を見せるという時間が、とても居心地が悪く、大変面白かった。顔を見せていただいたのは、その後ずっとマスクをつけて稽古をするから。私の経験では、知り合ってしばらくしてからマスクを外した姿を拝見すると、「え、思ってたのと違う…」と感じてしまうからだ。思われた側は、知るかという話だけど、自然と思ってしまうし、思うと余計な眼差しを向けてしまうかもしれないのだから仕方がない。お顔を見せるときの皆さんの「罰ゲーム」を受けるような眼差しが印象的だった。俳優さんなのに。俳優さんだからか。


小編は簡単に読み通していただいてすぐに、ここはあーだ、そこはこーだと解読の時間へ。そしてそれなりに細かい提案をしていく。細かいけどテキストを読み解いた結果のそれなので無理はないはず。とはいえいきなり飛ばしすぎたかもしれない。楽しいのでついうっかりエンジンを吹かしてしまいそうになる。自分がやりたくて始めた稽古なので、それでいいと言えばそれでいいのだが、一方で、誰かがいてくださらないとできないことをやっているという、当たり前の幸運を確認させていただいた時間でもあった。雪も相まって忘れられない1日になった。謙虚に協調を念頭に今後も進めていく。


なにしろ今回集まってくださった方々の曖昧な繋がりが面白い。強固ではないだろう。でも、しなやかではあるかもしれない。その柔軟さと形の無さを生かしていきたい。水は固めると割れるが、水のままならいつまでもそこにある。ほっとくと蒸発はする。


テキストを解読する上で設定した一つ目のコンセプト(もくろみ)は「笑えるものにすること」。コンセプト(もくろみ)は今後少しずつ増えていくと思う。


笑えると言っても大声を出したり変な動きをする必要はない。テキストに書かれていることも変えない。別役さんのテキストはそんなことをしなくても十分に笑えるので、それを俳優さんと共有する。


3時間しっかり読み合わせをして、ひとまずの考え方を受け取っていただき、終了。次はもう持って立てそうな感じ。ワークショップではなく稽古なので、持ち回りで均等に読む時間はそろそろ終わる。配役を固め、ゴリゴリに完成度を上げていく。誰にも見せないのに。


向田邦子さんの『阿修羅のごとく』、第1話の前半部分のシナリオも配布。これは次回以降にお預け。


『稽古』は、公演の予定はないし経済活動でもないので、現時点では完全なる私の道楽でしかないわけだけど、道楽なだけあってやっている間はとにかく楽しかった。演劇は楽しい。公演事業もいいけど、こういうのにも補助金出してくれればいいのに。人が健全でいるためにあったらいいことがいろいろ含まれていると思う、稽古には。


今後も楽しい方向で徹底して行く。やがてなにかにたどり着く日も来よう。


なにをどう稽古していくかということは随時検討中。なので、そこに必要な稽古人も随時募集することになるかと思う。草野球があるのだ。草演劇だってあるだろう。お客様が入って初めて完成する演劇もあるだろう。でも演劇はそれだけじゃないだろう。私は、2019 年に作った『芸術家入門の件』という演劇作品の、ある日の稽古のことをよく思い出す。


新宿から山の方に向かったところに6メートル強のオブジェを立てるための倉庫を借り、そこを稽古場とした。演劇専用ではない。空っぽの埃っぽい巨大な倉庫だった。声は通らない、照明もない。工事用の電灯が二つ三つ。


そこで通し稽古をした。オブジェの素材と美術用の建設資材の中に混ざるように俳優が行き来し、反響する悪条件の中セリフを懸命に発していた。するといつしか外に暗雲が垂れ込め、猛烈な雨が降り出した。雷鳴も轟く。もはや声はかろうじて聞こえるレベル。それでも時間内にオブジェを建設できるのかという最重要事項の確認があるので止めるわけにはいかない。続ける。なんとか続ける。そのうちに雨がやんだ。そして、雨などなかったかのように明るい陽が差した。倉庫の中にすうっと、眩いオレンジの光が差し込み、偶然俳優を照らし、影を作った。冷たい山の風が吹き込んでくる。湿った埃が俳優の足取りに合わせて微かに跳ねた。なんとも言いようのない美しい光景が広がっていた。


これだ、と思った。もう二度と見られない偶然の重なりにときめいていては、少なくとも演劇のような高い再現性を求められる表現においてはプロと呼べないかもしれませんが。


あの、刻一刻と変わっていく空気と、そこに拮抗しようとする俳優の身体を見たものは、関係者でも少ない。当然観客はいない。その日の稽古は、日没でお互いの顔が見えなくなってきたところで終了。最後まで通すことはできなかった。俳優には大きな不安が残っただろう。公演はすぐそこに迫っていたのだから。


でも私はあの日の稽古は大成功だったと思っている。その場ではしゃぐわけにもいかなかったが。演出助手に怒られていたのが関の山だ。それに、大勢の人が見て、大勢の人が私と同じような感覚を抱くとも思わない。だからあれをお客様に見せたかったとは思わない。あれと公演は別。それでいい。お客様がいないところでひっそりととんでもないものが生まれることもあるというだけの話。惜しいと思う人もいるだろう。それが見たかったと思う方もいるだろう。残念。そこにいないとどうしようもないのだ。それだって演劇だろう。


今のところ、『稽古』を目撃できるのは、私だけだ。




●自分のための備忘録/随時更新
(仮説であり、経験の浅い私の解釈なので間違いはたくさんある。ご笑覧)



「理解力」の段階   …1)脊髄反射 台本をとりあえず読む段階
           …2)情報理解 台本から情報を抜き出す 
                リセット 主観、思い込みのリセット 
              (情報と主観リセットは常に行き来する)
           …3)文脈理解 台本の文脈を解読する
                   ex.コンセプトやテーマ
           …4)抽象化  台本の要点・要素を絞り、
                     骨組み・構成・仕組みを掴む
           …5)実践         演技する

実践までの段取りは意外と多い。だから本読みはした方がいいし、稽古以外でも本を読んだ方がいいとされる。



俳優に限らず、2)の情報に対して主観をリセットできないケースが多いのではないか。「人を殺した人」という情報を主観(備わったモラル)で操作しようとする。だから「悪そうな人」や「やばそうな人」「冷血人間」といった表現を選択してしまう。結果、登場人物が画一化される。もちろん、主観を断つような書き方、演出が施されたものもたくさんある。よく仕組まれたものもあれば、技が及ばないものもある。私はよくよく後者である。


作家も「恋愛劇」を書く時、恋愛劇に対する主観が先行すると、既存の作品の内側で収まってしまう。例えば、「キラキラしている」という主観が人物の行動を狭める。必要な情報を集め、主観をリセットして文脈の組み立てに向かう。コンセプト(もくろみ)を立てる。結果、完成したものを見て「キラキラしている」と思う観客はいるかもしれないが、それは組み立てたコンセプトやテーマが、受け取る人間にとって眩いものだったということでしかない。「必死に生きてもうまくいかないことはある」というテーマを立てた作品からキラキラしていたなあ…を感じることは十分にあり得る。


人を殺した人にあるのは殺意と行為だ。コンマ何秒の殺意か、30年の殺意かは単なる情報である。文脈の理解に進む前にそれを演技の選択に活かそうとするのは拙速と言える。


俳優(あるいは作品)にはその他に「表現力」と「求心力」が求められるのかもしれない。
「理解力」「表現力」「求心力」は、相互に作用する。
「理解力」「表現力」「求心力」の向上には、心の状態、身体、技術の習熟度が大きく関わる(心技体)。   それらは有機的に作用し合って一つの形を成すものなので、単体で評価すべきではない。「求心力」は存在感といった言葉と似ているが、私の中で存在感はナチュラル、求心力は試行錯誤や鍛錬の結果身につくものという大雑把な区別がある。もちろん、それぞれを先天的に持ち合わせている人はいる。ただ、人間は時間と共に必ず変化していく宿命なので、持ち合わせたものだけを長く使い続けられる人はいない。あるいは世界観という言葉に置き換えることも可能かもしれない。だが受け取る印象を限定的にしてしまうかもしれない。演劇のような業種では、求心力の高さが経済的な成功を左右しがち。企画が通りがち。


観客もまた、俳優(あるいは作品)の理解力、表現力、求心力に惹かれるのかもしれない。コンセプトやテーマ・構成が理解できていて自立していること、CGや演出が凄い音楽やダンスが良いといったこと。求心力は俳優にかかる部分が大きく感じられもするが、実はプロデューサー陣の差配によって大きく変わるのではないかとも思う。


私は劇団の俳優に理解力ではなく、共感を求めていたのかもしれない。それはそれで劇団が劇団であるために必要なことだったと思う。劇団員であることと俳優であることは両立できる。だが劇団員になったからといって俳優になったことにはならない。最初から俳優だけを集めていたら劇団はここまで長く続かなかったかもしれない。一方、「劇団員」だけでは作品の成長に限界がある。なんらかの方法で「俳優」を育てなければ維持で精一杯になる。演劇は場所と人を多く扱うので、維持がなによりも大変。


俳優は本番で成長するとされるが、成長するのは、本番のための「稽古」をどれだけ積み上げたかにかかっている。稽古で本番ができなければ、本番で本番ができるはずもない。ああ耳が痛い。








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