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きわダイアローグ05 手嶋英貴×向井知子 5/6

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5. 自然の真ん中にいると、自然を感じる必要性はない

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向井:きわプロジェクトのホームページに「きわダイアローグ」という形でいろんな方との対話を公開しています。そのなかで、NTTコミュニケーション科学基礎研究所の渡邊淳司さんとのお話で「総体としての自己の捉え方」という話が出てきたんですね。以前手嶋さんもお話しくださった仏教における自己の捉え方とも関連すると思うのですが、ますますグローバル化するなかで、総体、全体といったものが捉えにくくなっていますよね。「つながる」とよく言われますが、一体何が起きているのかは捉えにくいですよね。それから、環境や世界といった言葉もよく聞きますが、自己の感受性の部分で捉えにくくなっていることが、ものすごくことを難しくしているような感じがしています。双方向から何かつなげていくような試みが必要なのでないか。「自然ってどういうときに感じますか?」といった大きなことから、一方で、わたしたち個人の感受性から自然を捉えるといった小さなことまで、両方の話をお伺いしたいです。

手嶋:自然の真ん中にいると、わざわざ自然を感じる必要性がありません。自然のなかで生きるという営み自体が、物事を深く考えることとは逆の方向に作用するんです。里に下りて、街の生活をしていても、山の暮らしやそこで起こっている日々の状況を知っていると、山を近いものとして意識しながら暮らすという意識の変化が起きます。特に比叡山という山は、いろんな神さまが宿っています。だから、あの山に住んでいる神さまのまなざしを感じながら、生きるということが自然に起きているんです。やはり山が見えたら手を合わせたり、拝んだりしますしね。そういうことは、特に現代ではあまりあるものではありません。昔は、京都市内のどこからも比叡山は見えていました。お山が見えると拝むようなことが普通に根付いていた時代がずっとあったんでしょうけれど、最近は高い建物が増えて、広いところに出ないと比叡山も見えなくなってしまいました。

向井:北欧のフィヨルドとは違いますが、比叡山にもまた、山と水と大地があります。この地形について、かつての日本の人たちはどういう捉え方をしていたんでしょうか。琵琶湖から比叡山までの地形、あるいは世界の捉え方について、どう思っていたんでしょう。

手嶋:武覚超(たけかくちょう)博士の『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年)という本には、「比叡山の古道および諸堂分布図」というカラーの付録がついています。そこでは、現在お堂が建っていたり、お堂の跡があったりする場所をピンクで示しています。高野山の場合は全体がピンクになるのでしょうけれど、比叡山では建物を建てられそうな場所の土地を削って建てているので、山中に分布しています。例えば、無動寺谷明王堂というところは、地図上では一見広い土地があるように見えるのですが、実は全然そうではありません。実際は、険しいところにへばりつくようにして、お堂が建っています。それに比叡山では、普通の山では考えられないくらい、縦横に道が通っているんです。

比叡山の古道および諸堂分布図

向井:みなさんが切り拓いたということですよね。

手嶋:それだけ人がいろんなところから上がってきており、また、山の中でも動いていたんです。道の多さを見るだけでも、全然普通の山とは違いますね。

向井:諸堂分布図にあるのはすべて、昔から切り拓かれていた古道ですもんね。

手嶋:今は、ケーブルカーもできて、山上駅を中継地点にショートカットで根本中堂と明王堂を結ぶ道がありますが、これは大正期に作られた新しい道です。ずっと昔は、明王堂から根本中堂に行くのでも、ぐるっと迂回して、山や谷を上り下りしていくような道しかありませんでした。地形をそのまま活かすと、どうしても一直線の道にはならないんです。重機などない時代は、険しい山の中でつくりやすいところに道を増やしたので、くねくねした道が増えていきました。回峰行者はそういう道を今でもルートどおりに歩いているわけですが、歩いてみて距離感を理解したうえで、地図の広がりを見ると、全部回るのは大変だというのがよくわかると思います。

向井:ひょこっと行ける場所ではないというわけですね(笑)。

手嶋:閼伽水(あかすい)から明王堂に向かう古道は、この険しい山の斜面で、例外的に広く、しかも石などもどかされて、舗装されているのかと思うくらい整備された道です。こんな道は、山の中に普通つくりません。この道が整備されているのは、千日回峰行に理由があります。回峰行の1000日のうち700日が終わると、行者は「堂入り」という、9日間飲まない、食べない、横にならない、寝ない修行に入ります。その9日間、行者は真言を唱え続けるのですが、加えて、毎晩深夜に閼伽水にお水を汲みに行き、堂内の不動明王に供えなければなりません。堂入りの最後のほうになると、体が衰弱しており、両脇を支えられながら、足の裏を引きずるようにしてお水を取りに行く形になります。そのとき道に石や突起があると、つまづいて立てなくなってしまう。だから、そのような状態で歩いても、つまづかないよう、昔からこの道だけは特別な気づかいをして平らにしています。この道は比叡山でも人通りの少ない場所ですね。

閼伽水(あかすい)
仏前に献じるための水を閼伽と呼び、その水を汲む源泉のことを指す
閼伽水から無動寺谷明王堂につづく山道

向井:パッと見ると、コンクリートか何かで舗装しているように見えます。

手嶋:山の中でこの状態の道を保つのは結構大変なんです。雨がバーッと降るとどんどん流れてしまいますし。

向井:そもそも回峰行はいつ頃からあるものなのでしょうか。

手嶋:源形になるようなものは焼き討ち以前からあったと思いますが、今の形になったのは江戸初期くらいからです。それ以前も山の中を巡拝するということはあったでしょうが、今のように、1000日や700日歩き終わったら満行するという形になったのは、近世になってからです。今は、千日の行者さんは10年から20年に一人あらわれて、伝統が続いているような形です。これまで20年間隔が空くことはあまりなかったのですが、時代が急速に変わっていますから、そういう厳しい行をやる人が今後もずっとあらわれるかどうか……。

向井:回峰行を全うされた方はやはり多くはないんですね。回峰行をやられる僧侶の方は、どのくらいの修行を積まれた方たちなのですか。

手嶋:基本的には、回峰行を満行した師匠のもとで10年くらい小僧をやって、それから延暦寺の山内寺院の住職になるための修行を3年間します。その後、延暦寺でお坊さんのお勤めをし、そのうち許されて始めることができます。いずれにしても、師匠と、谷会議と呼ばれる長老たちの会議で許可がおりないとできません。

向井:年月もかかりますし、大変な行なので、体力のある方でないとできないですよね。

無動寺谷明王堂
千日回峰行の「堂入り」を行う場所
無動寺谷明王堂から琵琶湖を望む

手嶋:今までは30代がほとんどですね。現代的な暮らしをしていたら、40代で回峰行を行うのはかなり厳しいかもしれません。明王堂から閼伽水に行く古道は、もともとお堂の裏手に当たり、本来は坂本方面からずっと登ってきたところにある長い階段が正面の参道です。急斜面のところを切ってへばりつくようにつくられています。
それから、お不動さん(無動寺不動明王)と別に無動寺弁天があります。明王堂は平安時代からありますけれど、弁天さんは江戸時代の初め頃につくられました。もともとは、琵琶湖の北にある竹生島に弁財天が祀られていました。それを山奥ではありますが、京都の近くに移動したということで、市民が盛んにこの無動寺弁天にお参りにくるようになったんですね。麓の各地域から登る無動寺道は、弁天さんにお参りに来る人のための道になります。

向井:山に弁天さんがいらっしゃるのはなんだか不思議ですね。

手嶋:湖ではないですが、山のなかでもやはり水場の近くに弁天さんがあります。弁天さんを祀るところはだいたい滝などの水場があるところです。
京都の人たちは、山を越えて無動寺道を通り、まず無動寺谷にやってきます。無動寺谷まで来ると、他とはやはり、樹木の植生が変わっています。それまではさまざまな雑木があるのですが、スギ、ヒノキが中心になってきます。霊木として守られているので、樹齢が長くなり、太いものが多くなってくるんです。そうすると山の様相が変わってきます。

向井:霊場だからというのはわかるのですが、なぜ同じ山の中でも植生が違うのでしょうか。

手嶋:やはりスギ、ヒノキを多く植えたり、守って大きくしたりということが、この近辺ではよくされていたようです。閼伽井からの参道にも、太いヒノキがたくさんあります。

向井:つまり、参道としてつくるためと言ったらおかしいですが、そのときに植えたものということでしょうか。

手嶋:行場ということで、雰囲気づくりといった理由もあるかもしれないですね。まっすぐで、ストーンと高くて、幹周りが大きい木があると、森厳な雰囲気になりますし。参道にはやはり、スギ、ヒノキが多く植えられています。

明王堂から弁天に向かう山道の木々

向井:比叡山では人工的にというより、地形に合わせて切り拓くというか、へばりつくようにお堂を建てて、道を巡らせていますよね。高野山に行ったときは、気がこもっていて、そのこもっているものがちょっとした結界を境に変わるのを感じました。それに比べて比叡山ではすごく気が流れている感じがしています。山中を巡っている道によって、移動できることの意味も大きいのかなと思ったのですが……。

手嶋:同じ山、お寺とは言っても、高野山とは様相がだいぶ違いますからね。高野山にあって、比叡山にないものの一つとして、大規模なお墓が挙げられます。お墓の集合地みたいなものは比叡山の寺域にはありません。それから、町もありません。お参りの人たちが泊まれる宿坊は1か所ありますけれど、それ以外はないですし。

向井:なぜ比叡山にはお墓がないんですか。

手嶋:山の上のお寺に集合的な墓地がないほうが当たり前で、むしろ高野山が特別なんです。お墓をお寺が管理するようになるのは、江戸時代に寺請制度ができてからです。寺が檀家の人たちの墓や戒名の管理をする、今でいう戸籍を管理するようなことを行うことで、役所の一部みたいな役割を果たしていたんです。ただそれは、里の寺の仕事であって、人が修行をするためにある山のお寺の役割ではないわけです。寺請制度が生まれる前は、人が亡くなったら、何らかの葬儀をやって、家の近くのどこか適切な場所に埋めていました。お墓は、偉い人の供養塔などを別にすれば、誰でもがお寺に頼んでつくるものではなかったんですね。今でも、お寺の墓地ではなく、自分の持っている田畑の一角につくられた中近世期のお墓があったりしますよね。それ以前になると、そもそも石のお墓ってなくてもいいものだったんです。死者を埋めたところに土饅頭ができて、それが数十年たつともとの山野に戻っていくのが一般的でした。昔から日本人がずっとお墓をつくり続けていたら、国中お墓だらけですよね。

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撮影:向井知子

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