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きわダイアローグ10 手嶋英貴×向井知子 6/7

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6. ミクロを積み重ねる日本社会

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向井:新型コロナウイルスへの対応も各国特色がありましたよね。ドイツには各都市に大学がありますから、例えばベルリンに感染症の専門家たちがいたら、地域の大学病院がハブになって、そこから各自治体のクリニックに落としていく。ものすごく構造的です。日本でそれをやろうとしても無理だと思います。それは政治家の質の問題だけではなく、物事の解決の仕方が違うから。日本の最たることに、あるものをすごく細かく極めて完成度を高くするところがあります。コロナ禍では、クラスターチームができるなど、その道を極めているものすごく優秀な人たちが、少ない人数にもかかわらず解決していくということがありました。その道の素晴らしい人たちが、その人たちのバランスで対応しているので、構造的に社会を変えるようなことをトップダウンでやらせようとしたら全然できない。個人が何かを理解できるかどうか、自分のやり方を究めて何かを達成できるかどうかが、重要な社会なのでないかと思いました。手嶋さんがおっしゃるように、感受性の部分で関わっていくことで社会を変えていくほうが日本人には向いているのかもしれません。

手嶋:ドイツではメルケルさんがリーダーシップを発揮したのは事実ですが、だからといってリーダーの言うことにみんなが従うという社会でもないですよね。正しいことを言っているかをそれぞれ自立的に考えて、支持する/しないと意見したり、マスクを強いられることに対する反対運動をする人もいたりする。日本の社会では個が確立している人自体が少ないので、個性の強いリーダーが生まれると、是正する周りの強い個がない分危ないのかもしれません。責任の重い事柄ほど、周りを見てから自分の判断を決めるほうが日本では普通ですから。つまり、急な変化に対応するのが一番苦手なタイプの社会の性質だと思います。ただ、誰がリーダーというわけではなくとも、こうするほうがいいという通念が社会に一般化すると、それに反する人があまりいなくなるという特徴もあります。うまく作用すると、それが強みだったりもするわけですよね。

向井:今回も他の国に比べて感染者を抑えられているのは、個人の善意や良心に頼った結果だと思います。その代わり、逆に言えば自粛警察みたいな、個人の批判、周りの目というコントロールも生まれています。ただ意図的でないとしても、個人の意識で社会が変わっていく方法もあるかもしれないとは思うんです。やはり日本を拠点にしているかぎりは、そこに触れることが必要なのかなと思っています。

手嶋:基本的に日本人は、「何をしたいか」より「何をされたくないか」を中心にして行動選択をします。例えばこのコロナ禍において、善意の人ももちろんいるでしょうけれど、「白い目で見られたくないから」とか「面倒な人に絡まれたくないから」という理由でマスクをしている人も多いと思うんですね。マスクをしていない人が悪い意味で目立つような状況になったのも、国民がオピニオンリーダーを支持したからというより、なんとなく、今時マスクをしていないとちょっとまずいでしょうという雰囲気が醸成されたから。何がしたいという主張をする人を増やすよりも、こうしたらまずいと思う人が増えるほうが、日本では社会全体が変わるような気がします。雰囲気さえ醸成されれば、一つの方向にパッとみんなが変わることができる人たちなんでしょう。行動選択の基盤がドイツの人たちとは違うわけです。そういった基盤をつくり出すのは、一人ひとりの常識感覚です。その常識感覚は、日常の経験の中で生まれた価値観がある程度優勢になると生まれてきます。そういう意味では先ほど言ったように、生活の中で自然に触れる個人的な機会を多くの人がもつようになることが、日本の社会で環境問題について多くの人が関わるようになるためには大事な条件じゃないかなと思いますね。

向井:日本人の場合って、社会が「大切」と言ってもあまり理屈では理解されないですよね。その人がそれについて大切だと思わないと進まないというか……。

手嶋:日本ほど路上にゴミが落ちていない国ってやっぱり珍しいんです。環境問題について積極的に考えているわけではないのに「その辺にゴミを捨てるなんて」という通念が効いている。主張やリーダー、システムがないにもかかわらず壊滅的でないというのは、日本らしいところかなとは思います。ただ、環境問題みたいな大きな問題については偶然にまかせるのではなくて、少し中・長期で見て、社会の通念みたいなものを一般化していくような流れをつくるアイデア集団というか政策が、日本の社会にとっては非常に必要なのではないでしょうか。

向井:外堀を埋めるということですね。さまざまな文化があるなかで、世界中が一律に同じ考え方や方法で「みんなで変えましょう」というのはなかなか難しいんじゃないかと思いますね。

手嶋:解決がすぐ出てくるような問題では当然ないですよね。ただ、京都あたりで接する大学生は地球環境というほどグローバルな視野で考えているわけではなくても、自分の身の回りの環境破壊やゴミの分別の問題をルーズにしたくないという良心的な人たちが、わたしが大学生の頃に比べると、ずっと多い気がしています。

向井:今の20代後半から30代の教え子たちと話すと、自分たちは幼少期に阪神・淡路大震災や、地下鉄サリン事件があったこともあり、世界に対してポジティブなイメージがないって言うんです。自分が矢面に立って何かをやろうとか、何かが実現できると到底考えられないから、自分たちで自発的に何かをすることはとても難しいと。彼らは「みんなが手を携えて何かをやりましょう」となったときには、わたしたちの世代よりよほど危機感や優しい気持ちを持っています。その分、個になったときは、折れやすいというか、生きづらさをもっているような感じもします。

手嶋:わたしたちの父親母親世代とわたしたちよりも、わたしとその子どもたちの世代のほうが、考え方や世の中の捉え方に、大きな差があるんじゃないかなという気がしますね。今の60代くらいの人たちは、自由な時間や環境があったら、外国に行っていろんなものを見たいとか、留学したいとかいう人が多かったと思うんです。今は多少景気が回復しても、留学したいという人がそんなに増えません。人間関係も含めて身の回りを大事にする人たちが多いんです。そういう感覚は、自分たちの世代にはあまりなかったと思うところの一つです。それはグローバルな大きな問題を考えることに直接はつながらないかもしれないですが、そういう人たちが中心になっていく時代になると、ミクロの積み重ねによって今解決できていないマクロなことも多少カバーされるのかなと。人の質というと変だけれども、それは、これからのほうが良くなってくる気がします。

向井:一方で危機感を持ったのは、4年前に、ドイツを中心に、北欧やイギリスやオランダでいろんな大学を回った際、日本人の留学生がとても少なかったことです。いわゆる東アジアといわれる台湾、韓国、中国、香港や、インドネシアなどの東南アジアの人たちはとても元気に活躍しているのに、日本人だけあまり見かけなかったんです。それに、西洋圏の日本に対する興味ももう薄れているなとも感じました。極東の島国以上の存在感はないというか、知らない間に聞かなくなったよねという感じでしょうか。アジアの他の国々は、世界でリーダーシップを取るような人材がすごく育っています。日本の国内においては隣人に対して別の共同体をつくりましょうとか、手を携えていきましょうといった優しさや柔軟さみたいなものは一昔前よりも育ってきている気はしますが、世界レベルで生きていくのは難しい状態になってきているのかもしれません。

手嶋:今大学生の人たちが守りに入ることは、育成環境からすると仕方がないことなのかもしれません。日本はある意味で成熟国でもあるので、だんだん国力は落ちています。とはいえいきなり国力をがくんと落とすと、その煽りで被害を受ける人が増えてしまうので、多くの人が順応できるようにだんだんと落としていくことが、日本のこれからの課題だと思います。経済的にプレゼンスが高くなくても、暮らす人たちが満足している国は世界にはたくさんあります。そういうふうに、国のイメージを変えていくことが、これからの日本の社会には適合するのかなとは思います。ただし、守りに入ると、同質性が非常に高い社会になっていく。要するに、一人だとリスクは大きくなるため、群れをつくろうとしますし、群れをつくるためには同質性が必要になってきます。そうすると排他的になっていくバイアスがかかりやすくなると思うんです。良心的な人が多くなって、まとまりのある社会になるのはいいことのようですが、反面、異分子を排除するような反動が起こりやすくはなるのではないでしょうか。

向井:行かなくても、あるいは自分が経験していなくても、別の考え方をしたり、別の行動をしたり、また、別の性質のものに対して感知する力や、それに対して寛容である感受性を育てていくことが、排他的にならないためにもぜひ必要だと思うんです。
環境問題のことを考えると、将来、飛行機が飛ばなくなる可能性もあります。物理的に外国に行く人が減るなかで、同じアジアでも大陸に住んでいる中国、韓国、香港の人と日本人は全然違う生き方になっていくのかもしれません。そうしたときに、閉ざされた鎖国になるではなく、国内にいても世界を見れたり、世界を感受できたりする方策が大切なのではないかと思います。昔は、どこの国の人も今ほどの移動はできなかったわけですが、宗教が生まれたり、星を見たり、違う形で世界に対する感受性を持っていました。たとえ、これからまたあまり移動しない時代が到来したとしても、世界のさまざまなありようを知る感受性を育てていく方法を模索していく必要があると思います。

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