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noteを始めたきっかけと目的

英語の限界

2017年に南米・エクアドル に移住し、2019年の秋に現地の大学院で勉強を始めた。授業が始まってすぐに、自分にはラテンアメリカの基礎知識すら持ってなかったのを身にしみて感じた 。最初の頃はガルシア・マルケスやネルーダならちょっと読んだことあるという、「村上春樹なら知ってるよ」みたいな、今思えば恥ずかしいレベルだった 。よくそれで受験するよな、自分。無知の原因は私の好奇心の無さもあるけど、これまで受けてきた教育がいかに偏っていたか、そして巷で騒がれている「インターナショナル」や「グローバル」とか「国際的な視点」がかなり西洋中心主義なのかがとてもはっきりした数ヶ月だった。

二十代半ばでスペイン語を勉強し初めてからずっと実感しているのは、英語で触れられる世界が実は思ったより限られていること。大学院で読んだ本や論文で、西語から英語に翻訳されているものもがある場合、それは著者が男性だったり、西洋圏の大学で働いてる学者だから。英訳されてない素晴らしい本もたくさんあって、英訳されない本の多くは女性、先住民、黒人学者が発表したもの。言うまでもないけど、英訳がないなら大抵の場合、和訳があるわけない。

英語は知っていると便利な世の中なんだろうけどそれで全てにアクセスできるわけではないし、世界中の情報が英語になっているわけではない。私は、英語が母語だから自分の元には世界中の情報が届くし、知りたきゃいつでも知れると勘違いして、積極的に未知の世界を探求せず、無意識のうちに受動的になっていたと思う。スペイン語を始めた理由は複数あるけど、一つはそんな自分が「このままだと、英語ができるだけでふんぞり返ってる勘違い野郎で一生が終わる」って危機を感じたから。

リタ・セガートを探して

2019年秋、ラテンアメリカは数カ国で同時多発的に大規模の抗議活動が燃え上がった。燃え上がったとは文字通りで、エクアドルでも10月に抗議が始まり、路上で実際炎が燃え上がるほど、警察・軍と市民の衝突があった。エクアドルは比較的短期間で市民と政府の決着がついたが、同じ南米のチリなどは数週間に渡り市民の抗議活動は続いた(今も不定期に続いてる)。

そんな中、その年の11月にある動画がSNSに投稿され、公開されるとほぼ同時に猛スピードで拡散され、世界中へ行き渡った。それはチリのバルパライソという街で活動する4人組のフェミニスト・コレクティブ「ラステシス」が上げた動画だった。タイトルは「Un violador en tu camino」。訳すと「あなたの道ゆくレイピスト」。短い動画では目隠しをしたラステシスのメンバー4人+匿名集団が振り付けに合わせ歌を歌っている。メッセージはシンプルで、フェミシディオ*、及びジェンダーバイオレンス・性暴力の加害者は国家、社会、家父長制だ、と訴える内容だ。このパフォーマンスを考える鍵になったのがアルゼンチン出身の人類学者リタ・セガート氏(Rita Segato)の論考であった。

ーーここまではすでに日本語のブログなどでも少し紹介されている。しかし、肝心の論考の和訳が見当たらない。検索しても、そもそも彼女の本は和訳が一切存在しないようだ。ちなみに英語でもあまり出版されていないようだ。またもや英語の限界。

セガートのテキストの日本語訳はないけど中にはそれに興味が湧いた人もいたのでは、と思い、自分の復習も兼ねてまだ日本語で流通していないラテンアメリカの論文や本の紹介するため勇気を出してnoteを開設。ネットで不特定多数に素性を晒すのにはまだ少し抵抗はあるが、ある程度「私はこういう人物でこういう勉強をしています」と提示しないと説得力がないかもしれないので、頑張ってみた。

*femicidio(英語:フェミサイドfemicide)女性であることが故に殺害されてしまうこと。

西洋の握る覇権

先にも言ったように、ネットがあるとはいえ私たちの社会ではまだまだ情報が均等に回っているとは言い難い。大学院でも、周りのみんなは知ってて当たり前というぐらい全員知っているようなラテンアメリカ出身の有名な学者でも、名前を日本語で検索してみるとヒットがほぼゼロ。英語でも情報が少ないことだって多々あった。21世紀もなんだかんだ「言語の壁」を打ち砕けていないのか。それとも他に広まらない理由があるのか。

私たちが普段日本語で手に入る情報は果たしてどれだけ多様なのか。ファッション系メディアを見れば未だに「ロンドン」「NY」「パリ」「ミラノ」と言った都市名が目立つ。アート系メディアも西洋主要都市、たまに同じアジア諸国。でもそういう時は「今、実はジャカルタのアートシーンがすごい!?」みたいに、知られていないこと前提。ニュースで報道される海外時事ネタも欧米に注目したものが多い(昨年のラテンアメリカの抗議だって一体どれだけ日本の人の耳に届いたのか)。

だからなんなのかというと、一見直接日本に関係がなさそうでも、大したことではなさそうでも、こうした西洋圏への過剰なスポットライトとその他地域や文化圏に関しての極端な無知はそもそも原因が関連していて、それは蓄積して私たちの「世界観」を作り上げているのだ。そうして私たちは無意識に西洋が「知識や文化の生産元」だと認識する。学術系も、英・仏・独語のものから日本語に翻訳されているのではないか。

ほんの少し話は脱線するが、世界観について他にも感じたことがある。

日本のテレビで、いろんな国に住む日本人を訪ねに行くテレビ番組がいくつかあったのを覚えている。その一つで、確かアフリカ大陸の赤道ギネアという国にロケに行っていた放送回のことだが、画面上に表示されていたタイトルが「独裁政権国家!赤道ギネア」という感じだった。事実ではあるにしろ、他にアピールポイントは一つもないのだろうか。私はモヤモヤした。アフリカ諸国の話になると、貧困や暴政ばかりに注目する。確かに貧困や暴政の現状は広く知られてほしいが、5回に一回ぐらいは他の話をしてはいいのでは。過激な表現の方が視聴率は上がるからだろうけど、北欧の回でも同じ戦略に出るのかと言ったら、そうでもない気がする。日本の番組がスエーデンを紹介する時、見出しを「超武器輸出国家!スエーデン」とするのを想像できない。例え事実でも。そこは「美男美女の国!」とか「おしゃれな街並み」とかなんだかいい感じに言うのだろう。

ラテンアメリカロケだって、だいたい「発展途上」の側面を強調している。ロケに行く出演者は決まって「わー長距離バス、意外とキレイ!☆」みたいなコメントをする。「意外と」という言葉がポイントである。

世界観が作り上げられるとはそういうことだと思う。物理的な距離とはまた別の「心理的な距離」。西洋圏は洗礼されてて見習うべき知識や文化の生産元だと認識するようになる。そして、本当はよくは知らないのに、なんとな〜くの印象で「グローバルサウス」は発展途上だから私たちが彼らから学ぶものは特にないと思い込む。ラテンアメリカロケに行く人も、きっとよくは知らないけど、なんとん〜くバスは汚いんだろうなって思っていたのかもしれない。

また、上記でも一瞬触れた、私たちが何を「インターナショナル」で何が「ローカル」と認識するかにも西洋の覇権は関わる。アメリカに住んだことがあると言うと、その後の会話の流れの中でなぜか「さすがアメリカにいたから、国際的な感覚をお持ちで」みたいなことを言われることがある。別に「アメリカで暮らす=国際的な感覚が培う」ってわけでもないのに。それでは、例えば東南アジアやアフリカで育って、(私立インターナショナルスクールではなく)いわゆる「現地校」に通った人は同じように「国際的な感覚をお持ちで」ってチヤホヤされるのだろうか。多分その場合は「ローカルな感覚・知識」を持っているとされるのではと思う。西洋=国際舞台、その他・特にグローバルサウス=ローカル、とう知識の権力構造はとても明白だ。

その印象は誰が作っているのか?それは権力層であろう。そしてこの世界の権力層は500年前から他国を植民地にし、資源と人間を搾取しては高速に自国の富を積み上げることができた欧州を始めとした西洋社会ではないか(ここでは今は経済がグローバル化され、複雑であることと、今でもネオ植民地支配が続いているところまでは踏み込まない)。

その知識の覇権を問うつもりで、授業で勉強したラテンアメリカの学者を中心に紹介していきたいと思う。当たり前だけど、ラテンアメリカでは欧米では生まれない考えや歴史がある。また、欧米の覇権を脱構築して問うインドのポスト・コロニアル論とも関連する「デコロニアル論」を繰り広げている。

最後に

最近ではこのフレーズがちらほら聞かれる:decolonize your syllabus(デコロナイズ ヨア シラバス)

直訳すると「シラバスを非植民地化しろ」。つまりは授業内容を多様化しろ、知識の植民地や権力構造を解こう、ということ。具体的には、知識領域で権威を握るシス・ヘテロ欧米系白人男性の論考ばかりを毎年教えるのではなく、多様な人種、生い立ち、文化圏、セクシュアリティの学者の論考や本も授業に取り入れて、「当たり前」や「正しい」とされていることを問い直すこと、支配の構造を解くこと。今まで抑圧されてきた声にスポットを当て、歴史、社会、政治、文化を多角的に捉え、権力層が強制的に刷り込んできた「この世の公式な歴史や価値観」を問うことに繋がる。

日本の大学の現在の授業内容がどのような感じなのか正直わからないが、ラテンアメリカの学者や著者の論文や本の和訳が本当に検索結果ほど少ないなら、現状では実際シラバスに盛り込むのは極めて難しいのでは。できることは主に二つある。1)みんなスペイン語を習得する。2)スペイン語のものを日本語でも読めるようにする。明らかに2の方が現実的であろう。そこで思いつたのがこのnote。私もまだまだだけど、できることをできる範囲で、ということで。

紹介する内容は今のところ日本語や英語になっていないラテンアメリカの文化周りの書き物中心。一つ一つ、全文を翻訳するのは時間とエネルギーが必要で、現時点では取り組めない作業量なので、代わりに要約、部分的な翻訳、感想や補足という記事を考えている。レポート、もしくは凝った読書感想文というところだろうか。また、日本語で定期的に文章を書くことで二次効果として日本語での文章力が鍛えられることを期待している。

ラテンアメリカ発の論考や本、学者への興味がどんどん広がれば、もしかしたら将来はしっかり和訳した物が出版されて、大学の授業などで広く知られることを期待する。

もしかしたらこのnoteに興味を持つ人は、すでにこういう研究や勉強をしている人という、とても少ない人口なのかもしれないけど、誰かの役に立ったり、面白いと思っていただければ嬉しいです。

よろしくお願い致します。

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