『本格ファンタジー』定義罪

初めて話題になった本格ファンタジー談義

Twitterでにわかに盛り上がりを見せた本格ファンタジー談義。
Web界隈の長い人は「またか」という反応を見せていたが、私見を述べれば本格ファンタジーがまともに話題になったのはこれが初めてだ。

「いやいや、今までどれだけ血が流れたと思っているんだ」
と言いたい方もいるだろうが、冷静に考えて欲しい。

これまでは狭い界隈の何人、何十人が声を上げる程度でしかなく、発端となるようなツイートも行って100RTかそこら。検索すれば一通り読めてしまう程度の反応数で「盛り上がった」「炎上した」などというのはあまりに無理がないだろうか。創作ジャンルというそれなりに大きいパイから見れば木っ端もいいところだ。

繰り返すが、ここ数年で『本格ファンタジー』は炎上はおろか話題になったことすらほとんどない。これが数字的な事実なのだ。

それが今回、いろいろな事情が噛み合っておすすめトレンドに載るまでになった。それもようやく落ち着いてきたとみて自分なりの考えをここに記す。

本格とは『それっぽさ』である

辞書には載らない現実

いきなり頭の悪い見出しになって恐縮だが、これが本記事の基本思想である。
そもそも本格ファンタジーの『本格』とはなんだろう。
むろん、日本語としての本格は意味の決まった言葉だ。辞書で引けば

本来の格式。もともとの方式。また、それに従っているさま。本式。

デジタル大辞泉
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%8B%E3%81%8F

などと出てくる話はもう耳タコパだと思うが、これは今回の議論において全く重要でない。

なぜなら我々の多くは『本格ファンタジー』という言葉を語る時、そんな定義など意識していないからである。

「〇〇先生の新作がすごい! 本格ファンタジーって感じ!」

と友達に布教している人は

「〇〇先生の新作がすごい! ファンタジー本来の格式に則り正しい方式で書かれてるの!」

なんてニュアンスで語っているだろうか。そういう人も日本中探せばいるかもしれないが、まあごく少数派だろう。

「〇〇先生の新作がすごい! 世界観は作り込まれてドラマは重厚かつ壮大で登場人物たちも魅力にあふれていて…」

これが世間で『本格ファンタジー』を語る時のリアルだと言って差し支えないはずだ。
本格の意味とは……ファンタジーの意味とは……などと辞書を引くことは、無意味とまでは言わないが問題解決の糸口にはなり得ないのである。

もちろん『指輪物語』ほかファンタジーの金字塔的な作品群が重厚で壮大なんだからファンタジーの本格とはそういう作品のことだ、という見方もできる。だが、そもそも「重厚で壮大」という評価軸も主観的で曖昧なもの。本格ファンタジーのなんたるかを説明するには不十分だろう。

本格ファンタジーという言葉の持つ『それっぽさ』を解き明かし、言語化すること。
それこそが現時点で求められる定義づけだと考えている。
以下、もう少しきちんと説明する。

ア・ポステリオリ的な視点から

ア・ポステリオリ
《より後なるものから、の意》中世スコラ哲学では、因果系列の結果あるいは帰結から原因や原理へ向かう認識方法をいい、近代認識論では、経験に基づくことをさす。

デジタル大辞泉
https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%AA

分かりやすく言えば、すでに存在しているモノを整理する話だということだ。

我々人類が知恵をつけた時、空にはすでに数多くの鳥が飛び回っていた。そこに後から「鳥とはこういうものだ」と定義づけをしたのが『鳥類』という生物学用語である。

文学史を紐解けば『本格ミステリ』はその逆、ア・プリオリ的な概念といえるだろう(完全なるア・プリオリではないので『的』とつける)。
既存のミステリという言葉とは別に『本格』ミステリを規定した経緯があるからだ。

かつては謎を解く小説全般がミステリと呼ばれ、その範囲は拡大の一途を辿っていた(ミステリが流行ったら何にでもミステリと付けて売るし、SFが流行ればSFと付ける。いつの時代も同じである)。

そこで江戸川乱歩、甲賀三郎など著名な作家らが声を上げ、特に探偵が犯罪を解き明かす過程を主題とする小説を区別して『本格探偵小説』や『本格ミステリ』と呼ぶようになった(それまでにもそういう売り文句で出た本はあったようだが一般化まではしていなかった)。

その功罪は種々あろうが、おかげで我々は『名探偵が凶悪事件をズバッと解決する小説が読みたい!!』という時は本格ミステリの棚に行けばよいようになった。ありがたいことである。

乗っ取りはよくないという話

さて、翻ってファンタジーはどうか。
現時点で本格ファンタジーという言葉には本格ミステリのようなはっきりした枠組みは存在しない。存在すると言い張る人もTwitterでは見かけたが、少なくとも出版業界や文學界で広く認められたものではないはずだ。

それをはっきりさせようと言うのなら、ここでひとつの分岐がある。

かつての江戸川乱歩先生らのように
「ファンタジーという言葉が色々と内包しすぎたので、ここらで本格ファンタジーという独立した概念を作ろう!」
とア・プリオリ的に考えるのか。

それとも生物学者が鳥類を規定したように
「すでに本格ファンタジーという言葉は世にあふれているので、どういったものをそう呼ぶか整理しよう!」
とア・ポステリオリ的に考えるのか。

私は圧倒的に後者を推奨する。
なぜなら前者のア・プリオリ的な考え方によって生み出された定義は、必ずしも我々が日頃使う『本格ファンタジー』とは一致しないからだ。

『本格ファンタジー』は明確な定義がないというだけで、すでに一定のニュアンスを持つ言葉として成立している。そのことは書店に並ぶ『本格ファンタジー』と帯に書かれた本の数々が物語っている。
友人から「〇〇先生の新作がすごい! 本格ファンタジーって感じ!」と言われて何のことやら分からないという人はいまい。厳密に説明しろと言われれば難しいが、なんとなくは伝わるし、愛されている言葉なのだ。

だから今から文学史や過去の名作を穴のあくほど読んで「ファンタジーの本格とは、これだ!」とア・プリオリ成分たっぷりの結論を叫んでみたところで、それが現状の認識とかけ離れていたら誰ひとり見向きもすまい。正しい正しくない以前の問題になってしまう。流行りの「もう遅い」である。

「そんなことは関係ない! 間違っているなら正すべきだ!」

熱意はけっこう。だったら言葉ごと新しく作る方が建設的だ。

そもそも本格ファンタジーという言葉は誰のものでもない。読者や出版社の発した賛辞が積み重なり、時間をかけて今日のニュアンスを持つに至った経緯がある。

だからこそ本格ファンタジーという言葉に惹かれる人がいる。強い言葉を使うが、今から本格ファンタジーの定義決めを手前勝手に強行するなど、それらの客層を横から掠め取ろうとする盗人の蛮行と言わざるを得ない。

もし現状の本格ファンタジーが自分の志向と合わないなら。あるいはそんなものはファンタジーじゃないと憤慨する気持ちがあるのなら。『原理主義ファンタジー』でも『純ファンタジー』でも、近い概念であまり使われていない言葉がいっぱいあるのだからそれを使えばいい。
そうして素晴らしい作品を書き、帯にドンと『原理主義ファンタジー爆誕!』と書いて出版すれば世に問うこともできる。それが正道で王道というものだ。

繰り返すが、すでに広く用いられ愛されている『本格ファンタジー』を乗っ取るようなことはやめた方がいい。自分も含めて誰も幸せにならないから。

(誤解のないよう言うと、個人レベルで『自分はこういうのを本格ファンタジーと呼ぶべきだと思う』などと議論を交わすのは良いことだと思う。そうでなく、さも絶対正義のように自分の本格ファンタジー論を振りかざす行為を乗っ取りに等しいと考えている)

『それっぽさ』の正体

それを定義する意義

ここまで読んで、あるいは読む前からこう考えている方がいるだろう。
「じゃあ本格ファンタジーって定義する意味なくない?」
と。

ぶっちゃけ私もそう思う。
上述の通り、本格ファンタジーを定義するというのは新しいものを考える創造的な行為ではない。
すでに存在する本格ファンタジーという言葉のニュアンスを整理して言語化する。ただそれだけの『作業』なのだ。
編纂や図書分類の価値は無学なりに承知しているつもりだが、そういった視点で見ても優先度は低めだろう。

だからこそ私は最初に言った。
「本格ファンタジーの本格とは『それっぽさ』である」
と。

それに過ぎないのだ。マジで。
……が、これで結論としてしまうのも乱暴すぎる。なので本格という概念を分解する形で私見を述べさせていただく。
ここから行うのは本格ファンタジーの定義ではない。あくまで整理と言語化である。

分解と再構築

現代を生きる我々が本格ないしは本格的という言葉を使う時、そこには辞書には載っていない多くのニュアンスが含まれる。

『手間がかかっている』『高級品である』『本場生まれである』『歴史がある』『選ばれた人しか触れられない』『権威に認められている』etc……

それらを全て列挙することはできないしそのつもりもない。ただ以下のような傾向はあると考えている。

・否定よりも肯定の意味で用いられる
・卑より貴の意味で用いられる

そしてここまで分解すれば『それっぽさ』の輪郭も見えてくる。

まず否定より肯定という点。これは当たり前のようでいて重要だ。
世の中を見渡すとパンクロックのように否定的な名を持つカルチャーは存在する。本来のPunkは「ダメな奴」「娼婦」などの意味を持つ否定的な言葉だ。今風に言えば「底辺」といったところか。

これらのカルチャーは総じて何かへの反抗を柱とする。否定される側からのカウンターだからこそその名がつく。
パンクロック界の伝説、セックス・ピストルズなんかデビュー曲で政府とキリストにクソ喰らえと叫んでいるくらいだ。やばい。

古いところだと「歪な真珠」を意味するバロック建築も、もはや止めようのない流れになった宗教改革へのカウンターカルチャーの側面があったりする。まあバロックは後世についた名らしいけど。

逆に言えば、肯定的な名を持つ本格ファンタジーにその文脈はそぐわない。
もちろん社会や人間への批判的な精神はあってよいし、むしろそれこそ文学の本懐だ。
ただそれが主題であることは望ましくない。勇気、愛情、友情、探究心……なんでもよいが、現状批判よりも大きくて肯定的なテーマを持つことが望ましい。

あなたの一番好きな本格ファンタジー作品を思い返してほしい。暗い話かもしれないし明るい話かもしれないがどちらでもいい。
それは社会や人間への批判精神を巧みに組み込みつつも、主題はもっと別の所にないだろうか。そしてそれは美しく肯定的なものではないか。少なくとも私はそうだった。
(逆に醜く否定的なテーマを扱うのがダークファンタジーなのかなと思ったりもするが、本題とズレるのでここでは扱わない)

次に卑よりも貴という点。これは直感的に分かりやすい。
欲望、欲求に対して直接的すぎないと言い換えても良い。またお手軽でないという面もある。

お色気シーンがあってもよいが、抜くためだけのエロ小説であってはいけない。
復讐してもよいが、気に食わない奴を殺して気持ちよくなるだけではいけない。
テンポの良さは必要だが、進行がお手軽すぎてもいけない。

端的に言えばそういうことだ。
ファンタジーとしての出来不出来とは別に、それをやると本格に見えづらいという傾向がある。

ブラックな冒険者ギルドを追放された主人公が「ざまぁ」する、そんな小説があまり本格とみなされないのが好例だろう。

ブラック企業などへの批判精神が前面に出ており、しかも憎いあいつを罰したいという欲求に忠実すぎる。それはそれで強みだが本格の文脈にはそぐわないのだ。

こう考えると、何かと物議を醸す「ステータス・オープン!」もお手軽さ=卑に寄せる要素と捉えられる。
よく本格は作り込みが~などと言われるが、個人的にはそうは思わない。
神話的な戦いを描き、その末に人間は自らの能力を知る術を勝ち取ったのだ……と情緒たっぷりに解説を加えたところで、冒頭で主人公が「ステータス・オープン!」と言った時点で本格扱いしない人が多いだろうと思うから。

設定の分厚さや作り込み、文章の重さなどは『貴』に寄せる要素の一部でしかない。その本質は「構成要素全体としてどのくらい『貴』側か」にあるというのが私の考えだ。特に冒頭付近は印象を決定づけやすく比重が大きい。

長々と語ってきたが、どこからが本格なのかに明確な基準などない。
『それっぽく』感じたら本格ファンタジーであり、『それっぽさ』を演出しうる要素として『否定より肯定』『卑より貴』が存在するにすぎないのである。

結論

・本格ファンタジーはすでに一定のニュアンスを持つ言葉として一般化している。それを今さら言語的な解釈、あるいは文学史的観点から定義する必要は現時点ではないし、するべきではない。

・ある作品を本格ファンタジーと感じさせるのは『否定より肯定』『卑より貴』であることである。全体の、特に冒頭付近の構成要素が後者に寄っているほど『それっぽく』なるが、どこから本格ファンタジーとするか明確な基準は存在しない。

・基準がない以上、本格ファンタジーを名乗るのも自由である。ただし読者に『それっぽさ』を感じさせられなければ本格とみなされない可能性が高い。自作が本格とみなされなかったからといって読者に文句を言うのは本末転倒である。

最後に

私はここまで本格ファンタジーに傾向はあっても定義はないし、定義する意味もないと述べてきた。
だが将来、本格ミステリのように権威ある出版社や作家たちによって『本格ファンタジー』の枠組みが定義される可能性は否定できない。それは今以上にファンタジーが流行し、猫も杓子もファンタジーを名乗るようになって収拾がつかなくなった時代に違いない。

その内容は私の想像の及ぶところではないが、それだけの隆盛が続いてくれるのならいちファンタジー好きとして喜ばしいと素直に思う。


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