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第二回「コダワリのコトワリ」記録動画と後記

見れなかった人、見逃した人、もう一回見たい人etc…へ向けて
記録動画のリンクです。

今回も多くの人たちに支えられ、協力を得て、第二回を迎えられました。
まず場所を提供してくれた四谷喫茶茶会記。
「場」がなければ、集まれない。
「場」の重要性。
その場はオンラインでは代替え出来ないことを心底感じる舞台育ちの私の感性であります。
その「場」を保って下さっているご店主に大きな感謝を。
また、スタッフの仲間、ファシリと鼎談に関わってくれた上田晃之氏、
ゲストの書家 白石雪妃さん

そして、観覧者と配信を見て下さった方々へ感謝申し上げます。

それから、カンパ、支援して下さった皆様方へ。
また次へと向かうエネルギーとして、しっかりと受け取り味わい、
そのエネルギーをいい循環へとリリースする為に、大事に使わせて頂きます。

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後記

本番前にこんなツイートをしていた。(大分編集しつつw)

『文字を書くことの重要性への想いがもりもりと湧いて来た。
言葉の意味に囚われすぎていた自分を鑑みる。
書の世界に「意臨」がある。
「意」とはなんなのか?
一ついうならば「いごき(動き)」の意ではなかろうか…
それは、肉体的な動き(ムーブメント)の話しではない。
眼に見えない、測ることの出来ない動き…

文字を身体を通して書くことで、自ずと受け継がれる文化(経験的身体)がある。
それは、人が機能価値ではなく、存在価値を認めることが出来る土台として必要なことだろう。

今回久々に文字を身体に移して観じた出逢いは大きい。
ただの形のマネでは「意」を汲み取れない。
始まりがあり、終わりがあり、その過程に様々な動きがあり、その「線」は時に重なり交わり
古の息遣い、感受性、そして生命が宿っている。
その宿しものは、あなた、わたしという輪郭を感じさせ、また乗り越えさせてくれるやも知れない。

「意味」ではなく、
「意」

母語という、ランガージュの檻は、母語の結晶でもある「書」をもって乗り越えられるやも知れない。

古から切り離され、
連綿と続く生命の繋がりからも切り離され、
法の奴隷、言葉の自動機械、
個体論的な存在認識と、機能価値を求められる社会に、
「書」はその枠組みからの脱出を手助けしてくれるツールではなかろうか。

そんな想いがふつふつと湧いてきた。』

「書」の世界に少し触れただけでも、
この様な想いが沸き上がる「書」は、本当に残るべきして残っていることだと思います。
そんな「書」の可能性を、この「コダワリのコトワリ」に触れて、喚起して頂けたら幸いです。


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