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6.「怒り」の練習

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 以下の文章をを書いていたのは2年前のことです。投稿には至りませんでしたが、読み返して面白かったので取り上げます。

 精神的にも体調もどん底だった10年ほど前、カウンセラーの前で「怒りを表現することも、人に対して怒鳴ることもできません。どうやれば大声が出るか、また怒りを表現すれば良いかわかりません」としくしく泣きながら訴えていたのを、夜中にふっと起きたときに思い出した。
 まさか。わからないって?どうしたことだろう?
 寝起きの思い出しなので、果たして本当にその頃の記憶かどうかは怪しい。でも、大声を出せないとか、怒れないとずっと悩んでいた。
 育児をするようになってからは、人目を憚らず派手に怒鳴ったりすることもできるようになった。毎日、悪さをする子供と過ごすことによってできる、たゆまぬ練習のおかげである。
 表現の幅が広がるということにおいては、怒りを表現できるようになったのはいいことなのかもしれない。
 しかし、人前でも怒鳴れるとか、子供に対し感情をぶつけやすくなったことについては、果たしてどうなのか。
 そもそも、怒りの感情をぶつけたいわけではないのだ、悪戯や危険行為をやめさせたいだけであったのだ。
 と思っていた。
 私が怒ったから、子供が悪戯をやめた。と思っているのは私だけだったのだとわかるには少し時間がかかった。

 自分は感情を分類して、表現する技術が育つのが遅かったんじゃないかと思います。もちろん感情はあるのですが、それが怒りなのか他の感情なのか未分化なまま、扱いに困っていたのかもしれません。人前であまり歓迎されない怒りなんて、自分が我慢すればいいだけですし。
 もし怒りを表現するのに、例えばしっぽが必要なら、私にはしっぽがないと言うイメージです。みんなにはしっぽが生えていて、怒ると毛が逆立つ。でも私にはしっぽがないので、外からはなにも変わらないように見えるでしょう。心の中で、ひとりモヤっとだけはしているのですが。
 怒りはともかく、「悲しみ」は感じられたし、それで泣くこともできました。悲しんでるだけなら誰かに被害は及ばないから比較的無害だったのでしょうか。あるいは悲しみの方が自分にとって利用価値があったから、技術が磨かれていったのでしょうか。

 期せずして、やんちゃ坊主たちを相手に「怒り」感情を多用する生活になったために、「怒り」を自分のものにできたんだとしたら、「人の気持ちがわからない」と言わたことは一生続くのではなく、これからも少しずつ育つことができるんじゃないかなって思いました。

つづく


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