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【小説】 見果てぬ夢より 

 焦りが小さな虫の大群ように常に駆け巡っている。それは座ったままの自分を立ち上がらせようとしたり、仕事をしている自分には囁きかける。

そんな事をしている場合か、と。

 日当たりの良いマンションの一室に、夕方にも関わらず一際暖かい陽光が満ちている。熱を持つ光は、リビングに並んだ作業台に向かう佐々埼圭一を容赦なく堕落へと誘っていた。机に広がる紙や鉛筆から避けるように置かれたペットボトルの水を掴み煽る。この生暖かい光満ちた部屋で唯一、その冷たさで佐々埼の四散しかける意識に冷や水をかけ意識を束ねてくれる。

 鉛筆と紙が擦れる音以外は、テレビの中からしかしない。テレビでは音楽に乗った甲高く聞き取りやすい声と日常からかけ離れた効果音が立て続けに流れて、理解を放棄した頭では、耳から流れ込む喧騒にしかならない。

「見ないの?佐々埼くんが書いたシーン。」

 佐々埼は喧騒より手前から聞こえる声に顔を上げた。机の島の向こう、テレビの前に日野雪彦が人好きな笑みを浮かべつチラリと佐々埼を伺っていた。

 休日を満喫する父親のように、テレビを座り込んで見ている足の上にはタブレット。そして添えられているのはタブレットペンを持つ日野の手だ。

 漫画だ。漫画を描いている。

 佐々埼は手元の紙、ノートを見る。添えられた手は鉛筆の粉で黒ずんでいる。ノートの見開き右には5という数字。そして、見開きいっぱいの薄汚れた漫画。丁度少年が少女と共闘する姿が描かれていた。テレビに流れる場面と同じように。

 佐々埼は練り消しを手に取り、黒く掠れた主人公の顔を拭いながら答える。

「はい…宇水さんきてるし、見せたくて…。先生が言ってくれたとこ直そうと思って」

 佐々埼は勤めて平坦な声で言う。あくまで自分は平静に自分のなすべき事へ向きあっているのだと示す為に。

「せっかくなのに、もったいない。ほら、あそこすごく苦労してたシーンじゃないか?」

 佐々埼は促されてテレビをちらりとみる。テレビでは女の子のキャラクターが男の子を振り回している様子が流れていた。ちょうど共闘が終わり、主人公の少年の実力を見た少女が自分の言いように主人公を言いくるめているシーンだ。

 佐々埼は苦笑いを日野に返して机に向き直る。 日野は佐々埼が担当したシーンが先生、作者の宮嶋晴樹にダメ出しを散々食らったシーンだった為、あまり触れないようにする事にしたらしかった。日野はリモコンを手にとってチャンネルを変えた。 テレビから流れる音が、声の感情が一定なものに変わる。すぐ、ニュースキャスターの声だと分かった。

「現在世界各地、原因不明の奇病にかかる人々が増えています」

 佐々埼は主人公の顔のシミを消すのをやめて、鉛筆を握る。視界の片隅で、日野が佐々埼を見て音なく笑ったのを見た。

「世界的にほぼ同時に発症者が出ており、前例もなく感染経路が謎に包まれています。症状も不可解でアルツハイマーと同じかと思えば、患者の多くは問題なく生活しています。しかし、彼らには何かを決める意思がなく、徐々に最小限の動きしかしなくなっていきます。精神病の類に近いとの見方も出ています………」

 ここ最近散々聞いた言葉たちだ。順序こそ違えど似たような言葉の羅列は、呪文の様な規則性さえ感じる。しかし、今度こそ違う何かがあるかと期待をしてテレビに再び目を向けた。

 テレビには白髪まじりの、しかし綺麗で若い病院服を着た女性が窓越しにぼうっと穏やかな顔で陽光を顔面に浴びて見ている。その姿はノスタルジーな写真の様に現実味を失っていた。

 特に驚きもなく、佐々埼はそのシーンを眺める。時々、自分と同性同年代の姿が映ると全身を微かにざわざわと体に這い回るものを感じる。それはノートに向かい合っている時の感覚に似ていた。

「………他人事じゃないし、不謹慎だけどさ。どう漫画に活かせるかとか考えちゃうよな」

 同じように見ていた日野が呟く。それはうっすらと佐々埼の中にもあったものでその言葉をきっかけに漫画の内容を思い浮かべたが、すっ飛ばして完成した漫画が連載されてからの様子が脳内で思い描かれていた。

「わかりますけど…俺は炎上しそうで率先してやろうと思いませんね」

 日野は苦笑いを浮かべる。佐々埼の遊びのない答えに対してだろう。佐々埼も口にしてから、自分のつまらない言葉を恥じている。

「そこは参考にだけだよ。」

「………みなさん、周りの人たちの変化に気をつけてください。」

 ニュースキャスターが呪文の最後のお決まりの言葉を告げる。佐々埼はノートから離れていた意識を取り戻し、再びノートをに向き直る。ノートの中の少年は変わらず薄汚れたままだ。

リビングのドアが開く。廊下からスエットに黒っぽいジーンズを着たある程度のラフな部屋で過ごすような様相の30代の男と、同じくラフではあるが身なりは出かけられる程度に整えられた同年代の男が続けて入ってくる。 一人はこの部屋の主であり、漫画家の宮嶋晴樹。もう一人は宮嶋が連載している漫画雑誌の担当編集の宇水浩介であった。

 二人を見た宮島は疲れた顔を滲ませた表情で笑顔を作り、言う。

「打ち合わせ終わりました〜。遅くなってすまない。」

 佐々埼と宮島はいつもの調子で宮嶋に答える。時刻はサラリーマンの定時からはとっくに過ぎていた。佐々埼と宮嶋はそれぞれ会釈をして何もないように返す。

「日野くんと佐々埼くんはご飯食べたか?」「まぁ、まだですね」

 日野がチラリと目をむけたために、佐々埼は目が合った。宇水はその日野の目線を追って佐々埼にたどり着く。なぜ、食事に先にいかなかったのか納得したらしかった。

 結局あの後4人でマンションにほど近い、チェーン店の居酒屋で食事をしすることになった。4人の机の前には飲みかけのジョッキや酒の入ったコップが並び、その間をつまみの料理が埋めている。日野と宮嶋、宇水はそれを無造作に箸でつまんで口に運んでいる一方で、佐々埼だけは手元にある親子丼を食べていた。

 皆お酒が周り場が温まってきた頃、宮嶋が途切れた会話をつなげるように声をあげた。

「そういえば宇水さん、お子さん生まれたんですって?おめでとうございます!」

 宮嶋がジョッキを宇水の方に掲げて告げると、日野も佐々埼も驚きまじりながらも流れるように笑みを浮かべて祝辞を述べる。

 宇水は3人の一斉の祝福にはにかみながら「ありがとうございます」と返す。素直に幸福がにじみ出ている表情に、酒とは違う暖かさが場に広がった。

「帰るたびに、事件ですよ。…これからも楽しくがモットーで行くつもりですけど、なんというか頑張っていかなきゃなって。目の前の事ばっかりってわけにもいかないってね。」

 宇水は幸せそのものを思い出すように語る。多少の不安が混じった言葉でさえ今の彼には幸福の一部になっている様に見えた。

「お父さんになったんだな〜。もう今すぐ帰りたいでしょ?」

「そりゃもう。」

 宇水の即答に皆で笑う。宮嶋は笑いながら告げる。

「じゃあ、今日は早々にお開きだなぁ。」

 佐々埼はその言葉が少しの寂しさを含んでいる様に感んじた。そう思ったせいか、先の言葉とは裏腹に話をつなげる宮嶋に多少の子供っぽさを感じるながら耳を傾ける。

「日野くん、君の書いた同人漫画読んだよ。面白かった。負けてられないな〜って思ったね。」

「商業、また描かないの?」

 宮嶋は、日野に酒の入ったコップを向けながら調子良く聞く。佐々埼は口に入れていた親子丼が一気に味を失い、音が鮮明になるのがわかった。二人の会話に興味を示した体で佐々埼は顔を上げる。宇水が佐々埼をチラリと見他のにも気がつかなかった。

「いえ、今はイラストレーターでやっていこうと思っています。あ、もちろんアシスタントもさせていただきますよ。ただそっちの方が合ってるかなって…。長く先を考えて話を描くの向いてな…」

「それは慣れだよ!僕もそんな先のこと心配しながらやれないって!あ、でも、実は新章入るの決定しちゃってるからな〜。日野くんいないときついな〜。」

 宮嶋はほろ酔い状態で日野の言葉を話半分で聞き、日野の話を遮る。その様子に日野と宇水は苦笑いする。

「もったいないなぁ。宇水さん、時間の融通、きかせられないの?」

「え、あぁまぁ描く気があるなら…相談に乗るよ。」

 日野は意外にすんなり受け入れられた要求に、驚き「う〜ん」と悩む仕草をする。考えているというより、その艇を装ってる様に見えた。上司に無理難題を突きつけられた部下が断るために、不快にならない様迷っているフリをしているみたいな。

 日野にとって佐々埼が情熱を向けるのはその程度なものなのに、自分には日野の様に情熱に見合うものができないのか。「そういえば佐々埼君もプロットもらったんですよ。」

 佐々埼の頭の中を一瞬で覆った暗雲を散らしたのは、宇水の言葉だった。

「もう描いたのか!打ち合わせに来るたびに出してる気がするなぁ。」

「すごいな。頑張るねぇ…。」

 日野は佐々埼の熱意にただ感心した様に呟く。
 その言葉は、佐々埼を逆撫でする言葉にしかならなかった。熱意を向けるのをやめた他人事の様な言葉が、自分がどれだけ熱意を持ってやったことでも空振りであると言われている様だった。

「その熱意は佐々埼くんの武器だな。」

 宇水にの好意的な言葉は、鼻にかけた態度だと思いつつも佐々埼にとってのあんなふうにはなりたくないと闘争心に火をつけるきっかけにはなっている。

 すぐに提出した漫画の精査が来るわけでもなく、通常通りのアシスタント業務を黙々とこなす。その最中でも渡した漫画の連載してからの展開を考えたりと気持ちが落ち着かない日々が続いた。

 佐々木は宮嶋から部屋に呼ばれた。あれから1週間後だ。ちょうど担当が宮嶋の連載原稿を確認しにきたタイミングだった。佐々埼は体を硬くなるのを感じながら一息にドアを開けて部屋に入る。つくえに向かっていた宮嶋は振り返って陽気な顔で佐々埼を迎え入れた。

「おはようございます。先生」

「おはよう。宇水さんが…もう自分からは渡せないかも知れないって謝ってた。」

 宮嶋は山積みの紙の束からクリップで纏められた紙の束を取り出す。そしてその束を佐々埼に手渡す。宮嶋の少し影のある言い方とその場の空気に耐えかね、原稿を受け取りながら佐々埼は聞いた。

「宇水さん、何かあったんですか?」

「宇水さん…今流行ってる自失症の傾向があるらしくて、隔離生活に入ったって」

 ニュースで意味もなく天を仰ぐ人々を思い出す。飲み会の席笑顔で騒ぐ彼と繋がらず、佐々埼は心の中で首を傾げる。

「え?でもまだおげんきなんですよね?」

「進行が早いらしくて…。…だんだん考えることが億劫になって、漫画も何が面白いのかわかんなくなってきたんだってさ。それ聞いた時、すげぇショックだった」

 宮嶋は脱力して、重いため息を吐いた。佐々埼はそんな事かと言う心の中の自分を振り切り、手元の原稿を見ない様にしながら宮嶋の言葉を待った。

「……僕の漫画読んでて、いつもなら感動するところで心が動かなかったんだってさ。で、疲れてるのかもって一旦休んで、読み直して…やっぱ何も思わなかったって。僕の漫画で症状に気がつけましたって言われたよ。」

 芽を逸らさないようじっと見つめていた宮嶋は顔が強張っていた。しかし佐々埼を見て笑みを作り、息を深く吐いて切り替えたようだった。

「だから、今までの知識からのアドバイスはできるけど、熱意とか込めてあげられてないかもだからって、僕に一回読むよう言われたよ。ごめんね。」

 佐々埼は不意を突かれ、間を開けてから宮嶋が読んだのだとわかって身震いした。乾いた口を開き、動揺が出ないことを願いながら喉から声を振り絞る。

「はい。それはもちろん」

「で、概ね構成は宇水くんの意見と同じで…ただ内容は君らしくないなと。好みの漫画のジャンルからだいぶずれてる。僕と同じ雑誌に連載するつもりで書いてるんだろうけど。なんて言うか…いや、言うけど…自分のを真似されてる気分になってる。」

 佐々埼は聞くにつけ緊張より脱力感が増していって、全く言葉が耳に入っていないと感じ始めていた。気持ちが落ちて行くのを奮い起こそうと宮嶋の言葉をただ聞く。

「雑誌の傾向に合わせるにしろ、自分の好きな所というか書きたい部分はちゃんと持つべきだ。僕の描くヒロイン、そんな好きじゃないって言ってたじゃん。僕、君がどんなヒロイン出してくるか楽しみだったのに」

 佐々埼は何か言おうとして、開いた口を閉じて原稿に目を落とす。原稿には女の子が主人公の男の子を戸惑わせ、振り回しているシーンが書かれている。

 …今売れている漫画を参考にして何がダメなのだろう。みなコレが好きじゃないのか?僕のやりたい事でさえダメ出ししてきたくせに…。

 永遠と呪詛みたいに巡る言葉を飲み込むために原稿にひたすら目を滑らせる。

「アニメ化目指すんだろ。先は長いかもだけど、諦めないでいてくれ。僕も楽しみにしてる。」

 あまりにも軽いエールだと佐々埼は思った。硬い頬を動かして笑みを作流ので精一杯だ。
 尊敬する宮嶋を初めてそれ以外の気持ちが湧き上がり、そして自分の中の何かと一緒にしぼむ。手足が冷えて行くのを感じながら、一礼して部屋を出る。

 部屋を出た瞬間、緊張が解け満ちる暖かい陽が自分を満たすのがわかる。光を見つめ身を委ねているとふっと知らぬ間に上がっていた肩がさがり、息がしやすくなったのがわかった。
 そして、ふと気が付く。その日の光を見つめても、原稿に目を落としても、描いていた時にはあんなに内から溢れていた闘争心に似た意欲が湧いてこない。どうしようかと考えるほど、手に握られている落書きはゴミに等しいと感じる。部屋の中で感じていた、宮嶋に対する憎しみも今は陽に溶けてしまったのだろうか。



 夜の帳が下り始めた薄暗い部屋に、テレビがついている。
 佐々埼は白紙の原稿を前にテレビを見ていて、日野は部屋に入り一瞬佐々埼に慄くがすぐ不思議そうに話しかける。

「そういえば、最近自分の漫画描いてない?…スランプ?」

 そういえば、そうかも知れない。だって、何も湧かない。自分が描かなくても宮嶋を始めできる人から面白い物は生まれていく。
 今はただ暖かい陽の光を感じる。

「うん…もういいかなって」

 日野は困惑気味に佐々埼を見ているのがわかった。佐々埼はそれもどうでも良くなり、テレビに目線を送る。ニュースをやっているが内容は頭に入っていない。聴く気もない。

「おい…。佐々埼くん…?」

 日野は恐る恐ると呼びかけてくる。佐々埼は日野が邪魔になって陽の光が差し込む窓に顔を向ける。テレビのニュースの音だけがある世界だ。

「この原因も症状も奇妙な奇病。自覚症状はなく、なすすべも無くゆっくりと自我を失っていく。唯一の対処法は周りの人間がいち早く気がつき、積極的に交流をすること…。」

 佐々埼は日野に名前を呼ばれ肩を揺らされているのはわかるが、気に止める気も起きない。ニュースキャスターはいつもの似たような話をしているのはわかった。

「悲劇は隣で、あなたが気が付いてくれるのを待っています。」

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