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くるりと返す piece_vol.68

急に寒さが訪れて、ああ季節も巡っているのだなと感じる。
今までもそうだけど、毎日毎日変化の連続で、朝目が覚める度に世界が変わっている。別に異次元になったとか何か違う風に見えるとかそんなお伽噺とぎばなしじゃなくて、目覚めると空気感が変わってるし、まだボーッとしながらまどろんでる時に「ああそうだったのか」という気付きのようなものや腑に落ちる事が突然訪れて、その瞬間からまた違う世界になる。どうやら寝てる間に色々リセットされたり整理されたりしてるようで、朝起きた時のしばしのボーッとする時間でそんなことが繰り返されている。

その日々瞬間の変化スピードが速すぎて、言葉に翻訳する前に流れ去ってしまう一方、身体に浸透させるには時間がかかるから、変化を感じた瞬間の「!」というものと、それがジワジワと浸透しなからまた変化していく様のタイムラグがなんとももどかしくもあり楽しくもある。瞬間感じた「!」は直ぐ流れ去ってしまうから、身体の方の浸透が完了した時に「ああそうだったのか」となったりする。

この前の満月過ぎてからまた全体の空気感・エネルギーが変わった。変な言い方だけど、何だか丸い円のようなものがプヨプヨ浮いてる。ああそう、透明の大きなバルーンみたいなのがボヨンボヨンとあちこちに浮いてる感じ?
それは光の球体でもあって、人々をくるんでる。なんだかなーと思ってたけど、より人の自分という世界が写し出されやすくなったよーな感じもする。個性が強くなるとか、自分の思いがクリアになりやすいとか。でも一方で、その人の持っているこだわりやらのカラーも強く現れるようになるから、結局はそういった現れを通して自分という世界の中で自分を観るよう、全体の流れがなってるのかな。

それはある意味他の人との同調が薄れてくるということでもあって。それぞれの世界が強調されてくるから、それぞれの答えはそれぞれの中にしかなくなるから。今までのように他の人の意見に乗ってそのままのらりくらりとは行かなくなり、どうしても自分の方へ目を向けざるを得なくなる。

それはものすごい恩恵でもあり。

全体としての意識の改革。
個人の視点の転換。


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よく「まわりは自分の鏡」とか「自分が変わればまわりも変わる」とか言うけれど。理屈は解るのだけど、そーは言ってもねぇと信じてなかった。けどね、変わるんだ、これが。
例えば職場で意見食い違いとかあってヒートアップしたりして「この人に何言っても伝わらんな」とかなったりする。その場でトイレ休憩とかしちゃって、自分をクールダウンさせジブンの中心に戻る。で、先ず「この人には何言っても伝わらない」という思い込みを外す。次にジブンはどうしたいか耳を澄ます。相手の言ってる事はわかるし意見を否定したい訳じゃないけど、やっぱり自分の意は"今"伝えなきゃなと感じたとする。で、「自分の今の気持ちをそのまんま伝える」と決める。どう伝えるかは、考えない。
戻って先ほどの相手方にその時思い浮かんだ言葉をそのまま伝える。思考は使わない。すると何故かさっきまであれ程耳も貸さなかった相手が「そうだよね。それもありだよね。」となったりする。その間ものの5分くらいなのだけど。

これは私の中に「何言っても伝わらない」というのが元々あって、それがその相手と話をする中で『要らん思い込み』として浮上してきてくれたもの。この時勘違いしやすいのが、相手がこの人だからとかこの状況だからとかつい思ってしまう所なのだけど、実際は相手が誰だろうと関係ない。話の内容も関係ない。そのもう持ってる必要のない"思いクセ"を浮かび上がらせる為に起きたシチュエーションでしかない。

そうだと分かっていれば、その時やらなきゃいけないのは(別に無理してやる必要もないけど軽くなりたいのならば)、相手にどう納得してもらうかとか考えるのではなくて、その時何に自分が反応したかを注視して思いクセを見つけ、それを手放すことで。手放すっていうのは、まあ気が付いてちゃんと有った事を認識して「もう要らない」「このやり方はもうやらない」と自分に伝えたり、エネルギー的になら簡易手放し的なことやってみたり。
要は目を向けるのは自分の方で、その引っ掛かりをなくせば、同じ言葉を発したとしても目の前の現実は変わる。これはその場で出来なくても、お家とかで静かに内観して翌日とかに行動しても同じ。但し「昨日ああだったからな」とか思いながら行動しても、別の「昨日の続きだから変わらない」という思い込みが絡まってると変わらない。時間は繋がってない。
そういったのをここ数年で何回も目の当たりにし「自分が変わればまわりも変わる」ってこういうことなのねとなっている。
まーこの時「どうせこんなのやっても」とか思ってたら多分一生変わらないけど。何事もやってみなきゃ分からない。


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世界というものの中に自分という一個人が存在している、と普通は考えるし常識と言われるものなのかもしれない。
でも逆で。
自分が見たり聞いたり五感で感じる世界は、自分の内面の写し鏡でしかない。自分の内面を観るために現れているもの。それが何であろうと例外なく。
相手が誰であろうとどんな場所であろうと何してようと、その起きている出来事に自分の内面がどう反応してるか観るためのもの。
もっと言えば、その外側と思えている出来事の中には自分の肉体も入っている訳で、その肉体・身体は「ジブン」の所有物ではないと、この身体がジブンではないと見切るためのもの。

そういった事へ向かうために、全体の大いなる流れは、ひとつひとつその人に合ったタイミングで形で順番でちゃんと物事を現してくれる。
人それぞれみーんな違うから、どれが合ってるとか優れてるとかそんなもんはなく、人の数だけ違う形でルートで、でもちゃんとみんな同じ方向へ向かうようなっている。ありがたい。


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よーくよーく、シンプルに考えれば、何一つ自分の物はないし、自分で生きてるわけじゃない。
でも自分が生きていると思えて色んな事を経験して楽しめる素敵な世界でもある。

色んな扉が開かれて行くなあ。
どこに楽しみを置くかも、それぞれの自由。
そしてその楽しみのフィールドにより色々別れて行くんだろうな。
色んな無数のフィールドがあるからこそ楽しいくて美しいしきの世界とも言えるのかもしれない。


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