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意識して真中に向かう

真中まなかのジブンが安定してくると、そこへ戻った時の安らぎや安心感が深く感じられるようになり心地いい。


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目を閉じスンッと中心に意識を向けると、真ん中にスーッと軸が感じられる。ハート辺りがあたたかくなる。
その瞬間、この身体と感じられてるものを含めて、軸とは別物の感覚が訪れる。
耳から音は聞こえてくるけれども、その音は軸から外れた所で流れていく。
軸に意識が合えば合うほど軸は広がるように感じ、身体のどこかに何かが触れている感覚と絶えず流れる音や香りは"軸ではないもの"となり、"軸ではない"のだけどワタシの中のものとして今度は軸も含めて全てが感じられる。
"全てがワタシの中にある" になる。


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感覚というのは人それぞれだから、「自分の中心」という感覚もきっと様々なんだろうと思う。どれがいいとか正しいとかいうのではなく、そんなものに正解なんてないし必要ない。

ただ、誰にでも何となくの"自分の中心感覚"というのはあるだろうから、そこが静かで安らぎを感じられるようになれば、自分の中に安心感が育まれ「いつでもそこへ戻ればいい」という、外へ何かを求めなくても自分の中にリラックス出来る場所のようなものがあるということを土台に出来るようになりラクになる。外に探し追い求めなくても、自分の中で整えられる。


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ジブンの真中に戻るというのを意識し始めてからどんなもんかと思っていたけれど、練習ではないけれども常にそれをやっていれば、安定はしてくるっぽい。少しずつだけれども、身体の習慣として染み込んでいく。安心軸は広がっていき、戻りやすくもなる。もちろん感覚だから例え話になっちゃうけれど。

感覚だけを常に上げておいてその状態で居る、というのは正直簡単なのだけど、それだけをやってると「現実世界はどうでもよくて」的なイメージだけの世界で遊ぶようになりがちなんじゃないのかなと感じる。それはそれで楽しいからいいのだけど、目を開ければ「見たくない現実」は単に「美しいイメージを重ね合わせて」自分の頭の中で見えてるだけになるから、そこに詰まりや不安が生じた時に、またイメージだけの世界に飛び込むことになって、そのうち結局八方塞がりになり"他の助けてくれるもの"を探し求めるようになるんじゃないのかな。

外に追い求めても終わりはないから、自分の中にあるというのを見つめればいい。
でもそれはこの身体ありきなので、身体での体感覚も習慣の書き換えをしていかないとちょっと無理っぽい。精神的なことは精神だけやってれば、じゃなくて、身体と連動させないと片落ちになる。それでもいいという人も沢山いるだろうけど、そういう人はもともとこんな記事読まないから、まあいいや。


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「感覚重視になってくる」とは去年辺りからあちらこちらで見聞きする事だけれども。
このジブンの真中が整ってくると、直感やらインスピレーションやら「何となくそう思う」が感じやすくなってくるし、だんだん確信に変わってくる。人によってはこれらをハイヤーセルフと繋がるとか本来の自分の声とか守護霊だとかはたまたお告げだとかまあ色んな呼び方してるけれども、どんなレッテル貼ろうとも種類が違うとか何ぞやあっても、自分の中で起こっていることには変わりないので、ひっくるめて簡単に"直感"とかでいいんじゃないかなと思ってる。しきの世界の遊びには変わりないのだから崇高も優劣もへったくれもない。本当は何なのかなんて誰も分からないのだから。

直感やらが鋭くなるのがいいって言うよりも、ジブンの真中が整って安心感が増し、自分の中に"静かな空間"が確信できるようになると、頭の中のおしゃべり、つまりは思考やエゴ的な囚われから距離を置きやすくなり、次第に気にならなくなる割合が増えてくるからラクになるっていう方が近い。
思考やらから離れやすくなることで→もともとある直感が感じやすくなる、だから。もちろん他の方法で離れやすくなれればそれもヨシで。
思考は「過去の記憶」で直感は「いま感じてる感覚」だから、よりイマのジブンに近いものありきで行動に繋げられるようになる。


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だんだん「ああ、自分のことさえ気にかけていて、自分の中を整えていればそれでいいんだな」と思えてくる。今までの社会的一般論からみたら「なんて自己中心的な」と言われそうなことだけど。

でもね、「誰かのために」何かやるのも素敵なことだけど、そこには必ず「誰かのために何かをしてあげた自分」というものがくっついてるわけで。もちろん無為むいでできるのならばそれでヨシだけど、無為でやっているのならばそもそも「誰かのために」なんて浮かばないから。


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自分の中が安定して安心して、あまり物事へのこだわりがなくなってくると、そういった雰囲気のようなものがその人のまわりを漂い、まわりをも心地よくさせる。その人がそこに居るだけで、まわりも穏やかになり整う。これってスゴイことだよなーと思う。

だから人それぞれが自分を整えることに重きを置いてそういった人達がそこらじゅうに居れば、別にわざわざ何かをしてあげようとしなくても、その相手は自らでどうにか出来る気力が湧いてくるんじゃないのかしらん。
もちろんその穏やかさの中でお互いがしたいと感じることをすればよいのだけど、「誰かのために」というコントロールパワーはもう要らないんじゃないのかな。
「誰かのために」という思いが湧いてきた時点でそれは外向きの考えだし思考だから。思考が問題解決をすることは、ない。


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ヒカリが本当に増えてきている。
どこを見てもキラキラ光っている。
暗いかな?と思う所でさえ、その暗さの中でのヒカリの輝きがみえる。不思議なことだけど。暗さの中でヒカリが輝いてる。

これを内面的視点に置き換えて観ると。

今まで暗いとか重いとか思っていた物事は、持っていられなくなる。だって光っちゃってるから(笑)。持ち続けようとする方がキツくなる。だからもしかしたら自分の中のそういった面にスポット当たって浮かび上がり、その暗さだけに目を向けてドヨーンとなる事が起きたり、内面お掃除的な案件浮上したりがあるかもだけど。でもそれはヒカリありきのお話しなんで。輝いてきたから見えてきたものであり、暗さが増した訳でも復活した訳でもない。
輝きと軽さが増しちゃったの。


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ね? 見えてなくても耀いてるでしょ?

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もうどこを見てもヒカリだらけで。
しかも日に日に増している。

そしてお陽さまパワーも、強い。
全身に太陽浴びるだけでもリセット&チャージされる。5分でもいいから。
今日はあまりにも太陽の光が気持ちよくて、立ったまましばらく全身日光浴するアヤシイ人になっていたのだけど、2~3分もしたら身体は動かしてないのに、左側と右側の肩の骨が順番にコキコキ鳴って笑った。身体はちゃんと正しい位置に戻ってくれる。


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風が吹くたび
落ち葉が舞うたび
目の前の芸術が移り変わっていく

鳥が羽ばたくたび
陽がさすたび
ワタシが歩くたび

この
見事なまでに美しい世界の流れは
瞬間 瞬間
瞬きをするたびに
趣をかえていて

もう
ため息しか出ない


その中には
ワタシも含めた
すべてが入っている

すべてが。


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ワタシも含めた
すべての人が含まれて
森羅万象とともに
流れ現る
美しいこの世界


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