見出し画像

見えてる以外の当り前さ

米が無いと聞いて
確かにスーパーからお米が消えてるけど
私はお米屋さんで買っているから
いつもの米屋へ行ったら普通にある

私の住んでいる界隈は米屋さんも結構多く
土曜でもやっている店もあるのだから
スーパーに無いなら
本業の米屋を覗いて見ればいいじゃない?

スーパーの激安商品には及ばないけれど
単価ではそれほど変わらないんだけどなあー
そこしか見ないで「無い」としないで
ちょっと切り替えれば「ある」かもしれない

何なら米屋には
「新米入荷しました」の札が
もう下がっている店もあって
どうも私の知っている世界と
世が騒いでる世界は
ちょっとズレているらしい



最近強く感じるようになったのは
自分が無意識に疲労してる時
自分のエネルギーがそのものへ流れちゃってて
要は自分のエネルギーを
明け渡しちゃってるから
そりゃー疲れもするよね って事で

前はここまで強く感じなかったのだけど
今は あー持ってかれてるなー と
枯渇感を感じるようになり
そこから意識を外すと
その抜かれる感じは止まる

相手が人でも物でも文字でも
何でもいいのだけど
自分と合わないものと接している時
必要以上にエネルギーが漏れてみたい

反対に 心地よいとか嬉しいとか
好きとか楽しいとか
そういった場合は漏れるのではなくて
受け取っている方が強いから
やっぱり元気になるよね 補充されて



人によっては本人無自覚でも
自分に意識を向けさせることで
エネルギー補充している人もいるから
そのためには喜ばしい事だけでなく
怒りや憎しみでも同じだから(質は違うけど)
自力でエネルギー補充なり
循環なり出来ない人は
貰う・奪うような事になって
それなりの反作用はあるけれど
まーそんなのお構いなしだから

そんなのに気付いたら
要は相手がどうでも 自分のエネルギーを
明け渡しちゃってるんだって
そう気づいたら
コンセント抜くみたいに
そこから繋がり引っこ抜いて
心地よいもの 気持ち良いものへ
意識を向け直せば 補充が始まる

これは本とか映像とかでも起こるから
「エネルギーが動いている」っていうのを
ちょっと日常の当たり前に加えておくと
単に目の前の現実だけでの関わり方と
少し変わって来るかもしれない

そうやって
日常の 当たり前 に
”見えないもの” も取り入れて行って
超リアルに感じられる現実から
少しずつでも距離を置くようにすると
そのリアル感もぼやけてきて
今の流れにも沿いやすくなる



どうなんだろう

外側に見える世界が
少し嘘っぽく見えて来てるのかな

あれ? って
変な感じ してきてるのかな

言葉が浮く感じ
うわべだけが動いている感じ
そんな感覚 出て来てるのかな

もう
綻びはだいぶ進んでいて
よーく目をこらしていると
結構あっちこっちで
笑っちゃうような不具合が
起きているのだけど

そんなのに
出会えたりしてるのかな



目の前に映って見えているものは
絶対じゃないよ って
お知らせみたいなの
いっぱい転がってるよ


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。