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潜んでいた”当り前さ”をこわしていく

自分の中で「そうなんだろうな」とどこか分かっているような部分があって、けれどなんか、ホントかなあー、確証みたいなものが欲しいなあーとなっている時、どこからともなく「それで大丈夫よ」みたいなお知らせが色んな形で届く。
それ自体が分かりやすいものであったり、その時は分からなくても後になって「ああ」となったり。
それが物理的に証明しにくいものであるほど、その「大丈夫よ」を受け取るとやっぱりどこかホッとする。どっちでもいいとはなっているけど、「そうなのかな?」の疑問は解消されるから。白黒つけたい自我くんが安心する。



いま「そうなのかな?」となっているのは、大抵が今まで当たり前と信じていた事らへのぶち壊しの前触れみたいなもんで、だからこそ自我くんが反応するのだけど、あー自分が反応してるな と気づいてちょっと横へ置いておくと、少しずつでもその当り前と思っていた事らに「そうじゃなくてもいいんじゃない?」が出てくる。

生活の中で無意識に身についてしまっている”当たり前”は、もうどれもこれもだから、それが湧いてきた時にひとつひとつ「そうなのね」と認識するのが結局は一番早いみたいで、めんどくさいなーと思いつつもやっていると、いつの間にかそのタイミングで自分の認識が変わっていることに気づいたりする。
あまりにも自然に移り変わるもんだから、「あれ?」って感じ。
気が付いたらそうなっていた、みたいな。
でもよーく考えれば、日常で身についた”当たり前”も、いつの間にか 当たり前 になっていた訳だから同じなんだろ。



3日間も35℃以上を経験すると、30度超えくらいだと涼しく感じちゃうからおかしなもんで、確か少し前は「30度超えた~暑い~」となってたはずなのに、その自分はもうどこかに行ってしまっている。

結局数字とか言葉とか、その瞬間のそれだけを捉えると、『以前』と比較してあーだこーだとなるけれども、実際はそうなった時に、それまでの流れで全く体感も感覚も変わってしまうのだから。



そして全てがその流れの中での出来事だから
どれひとつとっても
本当は掴んでおけるものなんてないのね

すべては ご縁 しだい

人は自分の心臓ですら
自分で動かせている訳ではない
という事をすぐ忘れちゃうから

何でも出来ると思っちゃうのね
出来てると思っちゃうのね

出来てると思えてるから
成り立つ世界なのね



自分がやっているわけではない
となるとやる気がしぼんだり
生きてる意味はーとかなるのかもだけど

でも
この 流れ の中での 自分 が
自分がやっている と
確固たる信念で生きていることは
そう思えていることは
とても不思議なことであって

その 流れというご縁の繋がり で
いま こうやって息して生きてる
この 不思議さ


ありがたさ


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