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答え合わせをするかのように

自分がキャッチした感覚が
合っているかどうかを知るのに
他の方々の発信などに助けて貰えていて
文字や言葉にはしてないけれど
受け取っていた感覚のことを
信頼している人が同じような事を言っていると
ああ あれは合ってたんだなーと
答え合わせのようなそんな感じになる

受け取り側次第で解釈は様々だから
多分感覚が近い人のが
こうだよーと現れて来てくれてるのだろうけど



これは自我が入ったものではないのか
という疑問は湧いてくることがあって
正誤性は無いし優劣も無いのだけど
自我やエゴから来た声を
あたかもそうかのように文字にするのは
それは自我エゴを増幅させて
満足させるだけなので
それをやらないようにするだけでも
結構自我エゴとの距離が空く

慣れてくると
自我エゴじゃないというのは
分かるようになってくるので
そっちの感覚を信じればいいだけなのだけど
そうは言ってもねぇーと
はて こんなのがそうなのか? と
疑問になってしまう時もあったりで
そーいった時は 同じタイミングで
キャッチした方の文字や言葉を知ると
ああ 合ってたのか となる



そうやって少しずつ
じぶんの内なる感覚 というものを
信頼していくのだけれども
時には 絶対的な確信のようなもの
というカタチで現れる事があって
この時は 一寸の疑いようがなく
ただ これだ となっちゃう

それが どれだけ現実的でなかろうと
どれだけあり得なさそうだとしても
もう でもそうなんだよなあ と
揺らぐことはない

それは じぶんというものを
信じてるとかではなくて
もっと大きな ぜんたいせい みたいな
絶対的なナニカ 
わたしやじぶんさえも含まれているもの
生かしているもの
そんなものへの確信で信頼で
この小さな頭の自分が
どーこー足掻けるものではないもの



この
絶対的なナニカ が
これからどんどん拡がって
わたしというものを占めていき
自我エゴさえその範疇で
一筋の美しい流れへと
繋がっていくんだろう

無意識で出来る範囲と
意識的に そうありたい と
流れられる範囲と
区別ちゃないけど
遊べるフィールドが違う みたいな
そこを どうしたいか は
それぞれの範囲によってで

もとのもとのもと は
もうそんなものも全てストーリーだけど
遊びの範囲では
そういった変化なんだろうなあ



これからどんどん
ことばの組み換え や
意味付けの書き換え が進んで

生きる そのものの意味が
変わって来るんだろうから

あっちこっちが同時に変化進行していて
言葉も身体も思いも感覚も
その時々 どこに傾いてるか で
わたしやじぶんを 知るしかない

でも必ず
手は差し伸べられているし
ヒントやメッセージは至る所に満載だし



ほんとうに
優しいセカイだなあー




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