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意味不要でよろしかろう piece_vol.73

「意味を追わない気軽さ」というのを最近感じてる。意味を追わない。なにごとも。

思考から距離を置くというのをかなり前からやっていて、それが定着してきたかなーとなって思考に巻き込まれにくくなってから、その場の流れにゆだねるというのをやったりしてる。

その場の流れに委ねる。
自分からあれこれしない。何も意見しないとか何も行動しないとかそんなのではなく、策略をしないというか物事を自分でこーせねばあーせねばとコントロールしようとしないというか。あらかじめこう言おうとかそういうのもしない。その場で思ったことを言葉にし、その場でやりたいと思った事を行動する。ただし、ここでも自我エゴ意識からの言葉や行動ではないけれども。

そしてそうやって言葉にしたことや行動したことに対して、自己評価をしない。ああすれば良かったかなとか、こう言えば良かったのかもとか、これくらい出来たから次はもっとこうなるかも、とか。

それらが出て来たとしても、追わない。全部今までの思いクセ行動の反復だから。流れに委ねて行動したということに対して、「自分が」ちゃんと出来たか出来ているかという確認を得る風にして「自分」が出てこようとしてるだけだから。
もちろん何回も出てくるし引っ張られたりするけれど、おっ!と気が付いたら直ぐ手放す。追わない。あらコンニチハ、じゃサヨウナラみたいにさら~っと。

習慣みたいなものだから何度でも出てくるけど、それでも続けてやっていると、そのうち落ち着いて定着してくる。意識しなくてもすぅーっとそう出来るようになってくる。

そんなこんなでしばらく経つけれども、感覚的にも色々変わってきたりもしてる。
なんかすごーく楽だなあとか思っていた時、フと「ああそうか、意味を追ってないからなんだ」と気が付いた。

何かをするにもあれこれ考えてからやるのではなく、やった後もそこでオシマイでそれについてあれこれ考えない。
だから、「言葉」につけてる「意味付け」をずっと持ち運ばなくても済んでいる。
それに加えて、「何でだろう」とか「どうして」が外れるみたいね。

興味からくる「何で?」は、場の流れで現れてる事だしその場で調べるという行動ですぐ終わるからこの時の「何でだろう」とはちょっと違っていて、この時の「何で」は「何でこうしてしまったんだろう」とか「何でああ言われたんだろう」とか、そのまま「自分が」が出て思考に巻き込まれる方のこと。

そういった今まで意味もなく意味を追っていた言葉が頭から去っていくと、余計なことに思いを巡らせることがめっきり減るので、なんだかとても楽になる。頭にスキマが出来るとでも言うか。無意識にでも、常に回転して意味を追っていたんだなーと実感する。

あれこれ考えなくなるとホケるんじゃないかと思うかもしれないけどそんな事はなく、その思考が居座ってたところにスキマができてその分リラックスできて、そうすると直感やら「何となくそう感じる」が増えてくる。それらが流れやすくなってくる。つまりは場の流れをキャッチしやすくなってくる。

たぶん、思考を使って「思考から離れよう」としても無理で。
同じように、思考を使って「意味を追うのをやめよう」としても無理なんだと思う。
それらも「自分でどうにかしようとしてる」から。自分でどうにか出来ると思ってるから。

だから、あれこれ考えずに何かいいなーと思うことがあったのなら、取り敢えずやっちゃうのが一番良いのではないのかしらん。
その時は結果も求めず、「やりたいから、やりたいことをやった」でオシマイ。
やりたいことをやったのだから、嬉しさや喜びしかないでしょ。やりたいことをやれた喜び。
自分の中に湧いてきた思いを行動を通して形に出来た喜び。現せた喜び。


意味を追わない世界は
意味がない世界なのではなくて。

意味を追わないことで
あらゆる意味付けが出来る
豊かな世界でもあり

一方で

「自分」というものから離れて
その無意味に展開される物事には
「自分」も含まれているということを
チラ見出来る瞬間があるのかもしれない


意味を持ってても持たなくても
意味をつけてもつけなくても
どちらでもよいのだけれど
まあ意味を付けてるのは「自分」だしなと
分かってやっているならば
それでいーやね、とオシマイとなる。


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