知り得ぬが現る世界 piece_vol.74
いつもの神社散策。鳥居をくぐったら「空っぽにしておいで」と何やら飛んでくる。
ゆっくりまったり歩きながら、神社の呼吸に合わせる。そういえばここ数日ジブンの真ん中にゆっくり落ち着いていない。気が付いてその度戻ってはいたけれど、日常のあれこれに流されやすくなっていた。
裏門から脇道へ。すっかり葉を落とした樹がそびえ立ち、空高いところで風に揺れている。
鳩が一斉に飛び立ち、その動きに合わせて私の中をすうーっと何かが通り抜ける。
遠くに輝くお陽さまが当たる場所で立ち止まり、身体を緩ませる。服を通り抜けてジワジワと暖かさが巡っていく。
空の雲は今日も面白く、師走のごとくあれよという間に流れ去っていく。
境内は新年を迎える準備が着々と進んでいて、ああ年末なんだなと改めて感じる。
あれほどあった落ち葉も綺麗に掃き清められ、手洗水の竹も新しくなっていた。
神社関係の方々が忙しそうに作業されているのとは対照的に、神社全体は落ち着いていて静か。鎮魂に近い感じ。ずーんと下へ落ち着いている。重いのではなく心地よい落ち着き感。大晦日に向けてこれが深まっていくのかしらん。
神社によく行くけれども別に信仰心が深いとかそんなのではなく、私にとっては近所のリラックススペースみたいな感じ。落ち着ける公園とかも近くにないので、いつの間にか神社によく寄るようになった。多分ご近所さんもみんな同じで、犬の散歩コースになってるみたいだし、お子さん連れもよく来て子供を遊ばせている。私みたいにお散歩してる人もいるし、観光客いなくても地元民で結構賑わっている。
リラックススペースであると同時に、私の中の静かな場所、私自身に向き合いやすい場所でもある。ジブンの真ん中にも戻りやすいし、社殿に向き合わせてもらう時は、自分自身の真ん中を観て感じている。神様を観てるのではない。自分自身の本来あるべき姿を観ている。神社というものを通して、自分を観せて貰っている。
あれだけ存在感のある社殿が、祓い清められ姿形は鮮やかなのに透けているかのようだった。エネルギーが縦や横に広がるでもなく突き抜けるでもなく、確かにそこに充ちているのに。
ああそうね、物としての分別隔たりの転換ね。なんだかんだ言っても社殿真正面に立たせてもらう時は社殿(という建物)に向かわせて貰うという気構えで立ってたしなあ。ジブンの真中を見据える、みたいな。
それすら要らんのね。
ああそうか。ジブンの真中の場に拘っていると「真中以外のところ」が強調されやすくなるのか。真中と言ってる限り自分という枠ありきの視点から抜け出せないか。中も外もないしね。その時その場で切り替えるのではなくて、もともと既にそれである、という視点への転換。知識でもなく体感でもなく。
視点の転換とか言っても「そうしなきゃね」と思ってるのは自我(エゴ)だしそうあるべきだそうなろうと直ぐ動くのも自我であり「自分」。"視点の転換"と言葉になった時点でもうストーリーの世界だけれど、この世は言葉で現すしかないからややこしいし勘違いや誤解しやすい。
もともと在るもの、それしかないもの、そうでしかないもの、そんな表現しか出来ないものが「自分」がゆるんでくることでうすらぼんやり感じられるようになってくるのかもしれない。
大自然を突然目の当たりにした時の言葉になる前の一瞬にもみたない、あれ。
「自分/自我」が決して見ることはできないもの。見たい感じたい体感したいと思っているほど遠退いてしまうもの。
「自分/自我」がゆるんでくることで、「自分以外のもの」との境界があいまいにゆるんでくる。別に視覚的にボヤけるとかそんなのではなくて。
どこまでいっても生きてる限り「自分」だしそうなっているのだし、と同時にそうではないものでもあって。こっち行ってあっち行ってではなくてそれらすべてが同時にこの瞬間瞬間ただ現れてるだけであって。
「自分」である限りそれすらストーリーとしてしか現せなくて。でもそれでもよくて。
まったくもってチャンチャン。となる。
面白い世界だなぁ。
言葉というものがツールでそれは対極があって。
身体というものを通すことでそこに感情や思考や体感などが加わって。
特質や個性と呼べるようなエネルギーを纏う各々があって各々はそれを「自分」だと思って生きていて。
皆同じ方向へ向かっているのに「自分」の経験をするためにわざわざ苦労困難して。
ようやく「自分」が固まったところで今度はそれをひっくり返すことが始まって。
この地球が対極世界だからこそ片方を知るためにはもう片方を知ることが必要で。
でも知るのは「自分」であって。
ツールでありこの世界を創っている言葉ではどうしようもなくて。
あたかもすごい時間が流れているかのようで、時間なんてなくて。
「自分」は時間の中にしか存在できなくて。
そしてこういったありとあらゆる物事はただ現れてるだけで。
幾重にも何層にもさまざまなものごと森羅万象が見事なまでに絡まって影響しあってこの繰り広げられる現実世界を作り出しているようにみえる仕組みで仕掛けで。
一方で紐解いてしまえば起きていることは至ってシンプルで。
そしてどれだけ理解を深めようとも「自分」には知り得ようもないもの。
それすら現れていて赦されている。始めも終わりもなく。
対極の世界だからこそのどちらかありきもなく、どちらでもよくてどこでもよくてどんな表現でもよくて。
そして「自分」という観点が消えるとき対極でもなくなる。
こんなこと知ってても知らなくても興味あってもなくても個々と呼ばれるものが流れてる方向には変わりがなくてそれが「いま」現れている。
摩訶不思議であり
不可思議であり
ただ
美しい世界だなあと
感じる。
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