この愛の行方をばどうにかしてくださいませ
コロナ騒ぎで国民はいろんなことを要請されて忙しいやら気が滅入るやら。
やってらんない、というわけにもいかないので、とりあえず社会的距離の確保の効能や弊害について愛情方面から、あらぬ噂の考察などもまじえて、イグノーベル賞選考委員会や日本学術会議の皆様の目に触れることなども大いに意識しつつ、ちゃぶ台返しで、いざ。
いつの頃だったか、昔々の話である。
板橋に住んでいた頃、池袋から乗った東上線の電車の中で、ちょっと気になる光景を目にした。
二十代前半ぐらいの男性が私の前の席にいたのだが、それがどことでもなく違和感がある。
ウィークデーの昼下がりのことで車内はガラガラ。彼の座席の左右にも私の座席の左右にも、近辺に乗客はほとんどいない。発車するまで少し間があった。
違和感の原因はすぐにわかった。何かを牽制しているのだ。私の方をちらちら見る目つきでそれがわかった。
目を合わせるのもなんだと思って私は素知らぬふりをしていたのだが、それでもなお、違和感がある。席を移ろうかとも思ったが、それも大人げない。
私の何を牽制しているのか気になったので彼のほうをちらっと見たら、両手がぴたっと静止した。
つまりそれまで彼の手はひそやかに動いていたのだ。あまりにひそやかなので、私はそれが感知できなかったのだ。
それが違和感の正体だった。
しかし奇妙なことをする。
彼の両手は座席の左右にカニのようにぎこちなく拡げられていて、カニのように人知れず、というよりも私に向けて、その間隔を少しずつ拡げたり狭めたりしていたのである。
メッセージは明らかだった。
ここは俺の領域だよ。
右側も左側も俺の領域なんだよ。浸入したりしないでね。
そういうことだった。
秋口のことで男性は白いシャツにジーパン姿だったと記憶している。拡げている両手(気が付いたら両足もかなり拡げられていた)のひそやかな動きと、すがるような目を除けば、ごく普通に見えた。
デジャブ~♪
縄張り意識だ!
それを、この男性はこんなところで露出させているのだ。何かの理由で、動物の本能を剥き出しにしているのだ。
そう思ったら急にしみじみ、男どうしの、子供みたいな、共感する気持ちが湧いてきた。
人間に限らず、獣にも鳥にも蝶にも飼い犬や飼い猫にも縄張り意識があるのは周知のとおりである。鳥などは自分の縄張りにほかの鳥が入ってくると、けたたましい声をあげて追い払うし追いかける。散歩する犬は道の片隅に頻繁にマーキングして縄張りを主張する。
私などは今でも、狭い家の中に自分の縄張りというか特別席を確保してしがみついている。そこは私が勝手に決めた自分のシマで、ヤクザみたいにみかじめ料を取るわけではないのだが、家人の無断浸入には警戒怠りない。さらに、機会があれば少しでもそれを拡げたいとさえ思っている。
人間の縄張り意識というのはオスの、つまり男の、二十万年前のサバンナでの狩猟冒険時代から連綿と続いている病理現象ではないかと思っていたのだが、家の中で見ているとそれがどうも女にもあるようで、一見おおらかで善良な家人などはテーブルでもチェストの上でも、イヤリングだの指輪だの眼鏡だの自分のモノをいろんなところに置きっぱなしにして、置き忘れたふりをして自分の領地を拡げようとする。
こんなことを勝手に書くと後でそのスジから文句をいわれる恐れがあるので、ここは、拡げようとしているように思える、といういい方にとどめておきたい(そのスジのかあちゃん、まことにすみませんです)。
この縄張り意識というものに、特に男は成人してから、自由、平等、博愛の社会的理念をむりやり学習させられた後も、ずっと苦しめられることになっている。
ここからが勝負である。生物学と心理学に端を発した私のこの新学説は分野を超えて、これから政治学や哲学の分野にまで展開されていくのだ。
縄張り意識の生物学的、心理学的、社会科学的、文学的な葛藤の結果が、家の境界争いであり、シマをめぐるヤクザの出入りであり、トランプとバイデンの論戦デスマッチでありボスニア・ヘルツェゴビナの民族紛争でありときて、ついには戦争である。
キタ、キタ、またキタ~!
いってみれば、どうでもいいような縄張り意識のために、男というものはわけのわからない戦争まで起こしてしまうような人でなしの人種なのだ。
しかし、こんなことを意気込んでnoteに綴って訴えてみたところで、イグノーベル賞どころか、かの日本学術会議もたぶん私を仲間に入れてはくれないだろうし、その前に読んでももらえないだろうかなあ。
菅さんに頼んで学術会議にねじ込んでもらってもいいのだが、あの人とはまるで付き合いないしなあ。
いやいや、いいたかったのはそれではない。
また偉そうな話になってしまうのだが(実人生があまり偉そうじゃないので、いつも家人にこんな偉そうな話をぶちあげている、かあちゃん、再びすみませんです)……私がいいたいのは、コロナ禍での倫理道徳はどうあるべきかという論議のうちの、ソーシャルディスタンス、すなわち社会的な距離ということについての、またまた偉そうな話なのである。
男どもの縄張り意識が喧嘩や戦争を呼び込んできたのなら、それを牽制し、心穏やかに封じ込めて、最後は戦争を抑止するのにソーシャルディスタンスというものが、縄張り意識を消化して、一定の教育的な効果を発揮してくれんもんだろうかと、昨晩、夜中に思いついて興奮したのだったが、今朝になってから冷静に考えてみたら、ソーシャルディスタンスには幾つかの大きな欠点があった。
冷静に考えてみなくても、それはあったし、あるにはあった。
まず、人間の人間たる喜びであるところの対話や談話や井戸端会議、すなわちおしゃべりがやりにくい。
特に私などはおしゃべり好きなくせに右の耳がストレスと老化で難聴気味なので、面と向かって大声で話してもらわないと重要なところを聞き逃してしまう。つまり、ソーシャルディスタンスだと大好きなおしゃべりがうまく楽しめない。
ここまではまだいい。
ここから、私はそのありふれた話を跳び越えて、日本学術会議を揺るがすようなことを、声を大にしていっておきたい。
すなわち、ソーシャルディスタンス要請のために、特に真面目な青少年の間において、恋愛の必須条件であるところのキスやペッティングが盛り上がらなくなっているのでないか(おお、ペッティング! 私の青春時代にはこの言葉を聞くだけで興奮していたものだ。懐かしい)。
なにも「私が盛り上がらない」という話ではない。
心配なのは健全な青少年の愛の行方なのである。
ここまできて、次に私は、みんな驚くだろうが、トランプ大統領もリツィートしてくれそうな話を披露したい。
いいだろうか、みんな。健全な青少年の愛の行方に関する新しい学説の骨髄を謹聴する準備は整っただろうか。
コホン。
キスやペッティングを阻害する政府のソーシャルディスタンス確保要請なのだが、これが、ひいては青少年のセックス倫理にまで悪影響を及ぼし、恋愛にブレーキをかけ、
将来の日本の人口減少が加速するのではないか。
私としては、愛の行方の盛り上がりよりもそれが心配なのだ。
政府はセックスレスを増やすようなソーシャルディスタンスを求めながら、もう一方では人口減少になんとか歯止めをかけようとずいぶん前から号令を発し続けている。
菅さん、あなたはこの辻褄をどう合わせてくれるのか!(この手の話になるとおじさんはついつい興奮してしまう)。
おしまい。
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