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その発想くれよ

作文が得意だった。

小学生のころの私が唯一、大手を振って自己承認欲求を満たせる領域が作文だった。国語の授業で出されるちょっとした課題の作文、夏休みの定番である読書感想文、私に書けない作文はなかった。先生が黒板に書く文字を正確にノートに書き連ねる作業そのものも悦に入るほど好きで、鉛筆で汚れた右手の側面すら愛しく眺めていたほどだ。

あれは確か学校からの帰り道。

私は身体に合わないランドセルを背負って家まで歩いていて、隣には友達がひとりいた。毎日欠かさずコミュニケーションをとるタイプの友達というよりは、ただお互いの家が近く帰る方向が一緒で、たまたまタイミングが合ったから「じゃあ、帰る?」と申し合わせただけの友達だった気がする。特別気が合うわけでもなければ、避けたいほど嫌いなわけでもない。宙ぶらりんの友達。

話題は作文のことだった。

その子はとにかく文章を書くことが苦手で、課された作文の宿題についてひたすら嘆いていた記憶がある。「なんで作文なんてものがこの世に存在するんだろう」とぽてぽて歩きながら、その歩みにも声音にも力がない。私は作文が得意で、どちらかというと「作文を書いて提出するだけで宿題をやったということになるなら、そんなに楽でラッキーなことはない」と考えていた側の人間だったので、その子にかける言葉がなかった。

どうしようかな、この空気。と小学生ながらに案じながら歩いていたとき、ふとその友達は顔を上げて言った。私に向かって、言ったのだ。「何を書けばいいかわからなすぎるから、『作文を書けない自分』をテーマにして書こうと思うんだ」と。

私はとっさに思った。え、ずるい。

ずるい、ずるい、ずるい。え、そんなの、ずるい。

私は作文が得意だ。でも、それ以外のことはぜんぶ苦手だ。勉強もスポーツも人との会話も、あんまり上手くできない。少しずつ鉋で木材を削り取るみたいに、自尊心を目減りさせながらなんとかこなしていた。それはいまも変わらない。傍目にはなんでもそつなくできる平均点な人間に見えているかもしれないが、私がこの世界線でそれなりにお金を稼いで生きていくには作文という分野しかない、と小学生のころにぼんやり思い至るくらいには切羽詰まっていた。それくらい、自分には作文しか得意なことがなかった。

好きでも、上手い文章を書けるわけでもないけれど、作文が苦手だと思ったことが人生で一度もない、というのは唯一の長所であるように思えた。だから、作文では誰にも負けたくなかった。ましてや、同じクラスの同い年の友達に負けるなんて、それはもう私のアイデンティティが死ぬ。

それなのに『作文が書けない自分について書く』?ずるいよ、そんなの。

だって、私にはそんなの書けない。お題をもらえたらある程度のものは書ける自信があるけど、それについてだけは書けない。だって、私は作文が書けるから。書けない自分のことなんて知らないから。

友達からそう言われた瞬間、自分がどういう返事をしたのか覚えていない。でも、このやりとりをしたのは今から25年くらい前で、アラフォーになりかけている今でもこうやって思い出しては心をグダグダさせているんだから、相当ショックだったんだろうな。

その発想くれよ。その思考の転換の仕方、教えてくれ。ゆるく穏やかに絶望しながら、ランドセルを揺らし、ぽてぽてと歩き、帰った。作文、何書こうかな、と悩みながら。

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北村有
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