小樽はなぜ「かなしき」なのか

二か月に一度、札幌の短歌仲間と歌集勉強会をひらいている。
今回は石川啄木の『一握の砂』。レポーターはわたし。なぜかいつまでも忙しく時間がまったくないので、近代短歌史をざっと復習して啄木の歌の何が新しかったのかを確認するに留まったのだけど、参考にした中村稔さんの『石川啄木論』(青土社)が勉強になったし、参加したみんなの意見もすごく面白くて、これまで啄木ってぜんぜん好きになれなくて、今も特に大好きというわけではないけれど、面白さというのはよくわかったな。

わたしは夏頃から小樽に海を見に通いながら、啄木のある歌のことをよく考えていた。その歌というのは、

かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ

『一握の砂』

生粋の樽っ子としては、初めて見たときは「喧嘩売ってんのか」と思ったけれど、「かなしき」は「愛しき」とも書けるし、いくら啄木といえどもただの悪口をひねりもなく歌にしたりしないだろう。と思って調べてみると、小樽商工会議所のHPにも似たようなエピソードが書いてあった。

歌碑建立計画を立て、市民投票を提案した結果は「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ」が1位だった。ところが、建立の助成金を求められた小樽市が“この歌では、将来にわたって市民感情に抵抗がある”と申し入れたので、変更されたといういきさつが伝えられる。

小樽商工会議所HP「小樽商人の軌跡 第九章 啄木と多喜二~その1」

やっぱりそう思うよね。
この「市民感情に抵抗がある」という申し立てに、歌をつくる者としてわたしだったらどう答えるだろう。
なぜ啄木は「かなしき」という表現を選んだのか。「歌ふことなき人人」に向けられた眼差しとはどのようなものなのか。

啄木が小樽にやってきたのは明治40年(1907年)の九月。
「初めて見たる小樽」という有名な文章がある。

小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の溢るる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である。
内地の大都会の人は、落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。(中略)
小樽の人はそうでない、路上の落とし物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。(中略)
されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

「初めて見たる小樽」

「突貫」というのは突撃のことらしい。
いま小樽で突貫している人などいない。観光客が集まる運河周辺をのぞけば、住んでいるのは老人ばかりである。わたしの実家の周辺なんて空家か老人が住んでいる家ばかりで、日中は本当に誰も歩いていないのよ。だから、わたしには「真に新開地的な、真に植民的精神の溢るる男らしい活動」が巻き起こす「自由の空気」に満ちた小樽というのを想像してみることがまず必要だ。

それに役立つのが「小樽市指定歴史的建造物一覧」。ここには全部で85件の建物が掲載されている。啄木が小樽にやって来た明治40年前後に注目して見てみると、それより前に建設されているのは倉庫や商店、実業家の邸宅などが多い。そして、啄木が去ったあとに増えるのが銀行である。国指定の重要文化財である日銀小樽支店は明治42年着工、45年竣工。北海道銀行も45年建造。大正の終わりまでに三菱銀行小樽支店や北海道拓殖銀行小樽支店が相次いで建設されている。
啄木が小樽にいたのは、物資の供給基地として港湾が整備され、鉄道が通り、商都としてまさに全盛を迎えようとする時代だったことが伺える。

ちなみに明治35年の小樽の人口は約7万5千人、それが40年には約9万人、大正5年には10万人を超える(小樽商工会議所HPより)。ニシン漁の出稼ぎの人たちや、内地からの移住者が詰めかけての人口増加。ちょっとどこで読んだのか定かではないのだけど、啄木が住む場所を探すのも大変だったんじゃなかったっけ?(嘘だったらごめんなさい)

あちこちで建物を建てるトンカチの音が聴こえ、伐ったばかりの木の匂いがする。「日本一の悪道路」を、泥跳ね上げて荷馬車が行く。人びとが大股歩きでずんずん進んでゆく。手宮線をSLが走る。運河には艀がびっしり。荷揚げ夫たちが重い荷物を次から次へと運んでいる。ひっきりなしに声が飛ぶ。商い人たちがそろばんをはじいている。海の遠くでは北防波堤が完成間近だ。頭上をウミネコが飛んでゆく。海岸伝いに、ニシン漁場の熱気も伝わってくるよう――。

***

ところで、件の勉強会である参加者の方が好きな歌としてこの歌を挙げていた。

真剣になりて竹もて犬を撃つ
小児の顔を
よしと思へり

『一握の砂』

その方は犬を「撃つ」という暴力に共感する啄木の怖さのようなものについて話していたのだけど(勉強会の中で啄木の「狂気」についての話が出たのもあり)、わたしはこの子どもは今でいうヒーローごっこをしているのかなと思った。当時のヒーローって侍とか軍人なのかなあと。だからこどもがそういう人の真似をして「やあっ!」って犬をぶっている(犬かわいそう)。そのヒーローであろうとする志のある顔を啄木は「よし」と見つめていたのではないか。そして、突貫する人たちや、「歌ふことなき人人」に向けられていたのもこうした眼差しだったのではないか。
新潮文庫についている年譜によれば、啄木は明治39年に徴兵検査を受けるも「筋骨薄弱」のために徴兵免除されているらしいから、こうした身体的な劣等感や溌剌とした強い身体への憧れのようなものもあるのかも。

書いているうちに長くなってしまった。
なので、

かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ

これはとてもいい歌です。

啄木にとっては、熱い時代の中で、機関車のように身体を使いながら一途に生きる小樽の人びとが、大きな生きもののように躍動する小樽の町が、眩くて仕方なかったのではないでしょうか。
そこには歌を詠むという悲しい行為は必要ないから。

わたしにはこの歌の向こうに、明治40年の小樽の熱気の前にじっと佇む、「かなしき」啄木の姿が見えるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?