元不登校の大学生に質問です2

第4回 元不登校の大学生に質問です。~不登校が解決した理由~

こんにちは、キッチンタイマーです。

このコーナーは大学生の私が、中学校3年間の不登校エピソードを時々バイト先のカフェでお客様に話しているうちに、もっとほかにも知りたい人がいるのではないかと思い、始めたコーナーです。

(思ったより反響があったので嬉しくて続いています)

表紙に素敵なイラストが付きました。私のアイコンもそうなのですが、こちらは恋人のKさんが「ファンアートだよ!」と言って作ってくれています。

さて、今回は第4回。不登校解決編です。

Q「不登校が解決した理由を教えてください」

A「長くなりますよ?」

質問に質問で返すというQ&Aにおいてのタブーに触れたところで、そろそろ質問コーナーも終結を迎えようとしています。

さて、学校へ行けなくなる頻度が徐々にであったように、学校へ行けるようになった理由もいくつか段階がありました。今にして思えば自分の力だけでなくいろいろな人の力を借りて、一度捨ててしまった人間関係を再び結び直すように努力していたように思います。

本格的に不登校になった中学1年生の頃から話を始めましょう。このあたりは、先生が良く面談に来て、同級生も連絡帳やプリントを届けてくれていたようです。というのも、この当たりの記憶を私はほとんど覚えていません。母と確認をしながら書いています。

この頃、学校へ行くと言うと私にとっては保健室へ登校することでした。大体水曜日に一度行くくらいか、多いときでも週3日。毎日行くような場所でもありませんでした。学校と私の繋がりは、この適度に行く保健室くらいのものでしたが、不登校とは言っても授業に出ないだけで学校との関わりはありました。

このとき学校へ行った理由は免罪符が欲しかったからです。「学校へ行った」という事実さえあれば、自分を納得させられました。父にも学校へ言ったと胸を張って言えましたし、父もここで「屁理屈を言うな」と言えばさらに学校へ足が向かなくなると思ったのでしょう、深く追求することはありませんでした。私は学校の保健室へ行ったあとだけは気持ちが軽くなりました。たとえそれが午後でも、居た時間が1時間に満たなくても、行ったという事実だけで満足でした。

その後父の単身赴任があり、また、私自身も昼夜逆転の生活を送り始めたので2年生になったときには、学校へ行かなくなっていました。ただ、母は必ず帰る時間を言ってから出かけていたので、緊張しない時間が長くなりました。何とも張り合わない時間が続くと、チャットも2ちゃんねるもだんだん退屈になってきます。このあたりの詳細は第3回をご参照ください。

そして、2年生の中頃、保健室へ顔を出したときA先生という新任の先生と出会いました。この先生がですね、べらぼうに将棋が強かったんですよ。それはそれは強かったんです。この先生は学校のどこかから将棋盤持ってきて、私と対局しました。そして、容赦なく私から一勝奪いまして、そのときは本当に悔しい思いをしました。

そこから、私は図書館で将棋の本を借りて読みまくりました。駒の動かし方くらいしか知らなかった中学生が、学校の勉強そっちのけで、本気で勉強するとですね。めちゃくちゃ強くなるんです。みんなが学校で国語や数学をしている間、私はずっと駒をパチパチ並べていて、絶対勝ってやると心に決め、日曜日の朝9時くらいに開催されている将棋部に突然顔を出しました。同級生は居ません。当時私はそれはそれは強かったので、大人げなく後輩を全てなぎ倒しました。……一人強い子が居て、その子には辛くも勝利と言う感じでしたが、全員倒しました。

それから、日曜日の将棋部には朝から顔を出すようになり、人との繋がりが2年生の後半から3年生になるあたりで少しずつできていきました。

それとほとんど同時期、3年生になってしばらくしてからのことです。プリントを受け取るために保健室に登校したある日の昼休み。ちょっと乱雑に保健室の扉が開き、めちゃめちゃガタイの良い男の子が入ってきました。明らかに怪我をしたり具合が悪くて保健室に来たわけではないことは分かりました。部屋の奥で引っ込んでいる私のところに、彼はまっすぐやってきました。

そして

「……トランプやろう」

トランプを持ってきました。

「ブラックジャックで良い?」

「ババ抜き」

二人でやって何がおもしろいんだよ。

その後一言二言話してから、彼は律儀に昼休み終了のチャイムの前に帰っていきました。彼はその後も、私が来ているときに度々やってきました。彼はすごく私と仲良くなろうとしていることが伝わってきました。昼休みにやってきて、少し話して帰っていく。何度かそんなことがありました。

すると、放課後プリントを届けに来た先生が「T君が来てるだろ?」と言いました。私は彼に名前を聞いていませんでした。だから、初めてそこで彼の名前を知りました。

T君は複雑な家庭で育ち、私と同じように学校に馴染めなかったそうです。彼の場合は学校に出てきてグレるタイプだったそうなのですが今は教室に戻っているのだそうです。

「今、3年のクラスはすごい雰囲気が良いんだよ。Tもいろいろあったけど今は落ち着いてるんだ」

そして、先生の差し金では無いことと、いやだったら言って欲しい。と私に説明をしてくれました。

将棋部に毎週顔をだすようになったせいか、昼夜逆転もだんだんと陰を潜めるようになり、学校へいける日は保健室で本を読み、学校へ行けない日はひたすら将棋の駒を並べていました。

その後もTくんは足繁く通ってきました。しかしT君はとんでもなく口べただった上に、おそらく「教室に来いよ」というセリフを避けて会話をしていました。なので会話はあまりにもぎこちのないものだったことを覚えています。そして、卒業まで、あと数週間になったときついにT君の我慢の限界がきました。

「……俺と、教室、入ろう」

なんと答えたのかは覚えていませんが、その日私はゴリラみたいにデカい背中の後ろにくっついて、数学の授業を石像のように固まりながら受け、逃げるように保健室へ戻りました。

週に1回、ないし2回、保健室に行く私。そして、やってくるT君。

「今日は、このあと国語」

「ああ、うん」

最後の最後、2回だけ国語と数学に私は出席しました。

そして、もう一回、学校へ行きました。

卒業式です。

立つタイミングも、歌も分かりませんでしたがT君が「そんなん俺も分からない」と言っていたので、調子に乗った私は当日、教室へ緊張しながら入りました。

じっと固まっていると、チャイムが鳴り先生が入ってきて、出席簿を開くと教室を見渡しました。

「……全員揃ったね」

私の中学生活はこんな風にして終わりました。

ーーー

学校への抵抗は3年生の後半でほとんどなくなりました。それは、両親と物理的に離れたこと、そして何より、両親が私が好きなことを好きなようにすることを許してくれたからです。

私が授業を受けたことを、両親は過剰に喜びませんでした。また、高校も少ない選択肢の中から私の意見を尊重してくれました。人とのぶつかり合いは、中学生の3年間で片づきました。

経済的な自立はまだできていません。しかし、両親と私の精神面での自立はこのときに終わりました。両親も私もお互いに人間で、それぞれの人生がある。それを心の中にしっかり浸透させるまで、私たちは3年の月日がかかりました。

人間関係の問題は何時間、何日、何年で解決するという風に時間で計れるものではありません。また、私の体験が全ての方抱える不登校の問題解決に繋がることもないでしょう。ただ、私と両親がお互いに精神的な自立をすることが最終的な決め手となり、不登校という終わりの見えないトンネルの中での生活は終わりを迎えました。

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