スパイアイズ
軒先に下がる何本もの氷柱が陽光を浴びて輝いている。店内の床には光が模様を描き、暖炉の前に寝そべるグレイハウンドの腹をまだらに染め上げていた。
アリスは雫が映し出す光線の動きを眺めながら、カウンターに並んだ電子マティーニを味わっていた。ひとくちにマティーニといってもレシピは複数存在し、ベルモットの種類や配合によって味が大きく変化する。それだけに腕と知識が試される一品である。だからアリスなりのマティーニを作り上げたいと思い、いくつものレシピを試していた。
だがアリスは味の違いこそ判断できても、味わい深さというものがどんなものなのか、まだ理解できないでいた。
ここはシベリア奥地の険しい山の中腹。岩肌にへばりつくようにして建てられたバーで、アンドロイドのアリスが営んでいる。こんな僻地にやって来る客は少ない。たまにやって来る客はなぜか厄介事を引き連れて来た。
ヘリポートで雪煙が舞い上がった。転送エレベータに客が到着したのだ。入口まで歩いて来る男を見て、アリスは顔をしかめた。また厄介事がやって来た。
男はサミーといった。アリスが軍にいたころ同じ部隊に所属する情報担当だった。とある作戦でサミーが作戦の情報を外部に漏らしたため作戦は失敗した。サミーは情報を敵に売っていたのだ。アリスはその時の生き残りだった。
もちろんサミーは姿を消し、その後その調査能力を生かして中国のスパイになったと噂されていた。
そのサミーが今、アリスの店のカウンター席に座っている。
帽子を目深に被り両手に包帯を巻いていた。人間相手なら外見はレイヤーの視覚効果でいくらでも隠せる。人々はその内側にどんな姿が隠されているかなど気にも留めない。だが、アンドロイドは物理レイヤーに属するため視覚効果は効かない。そのままの姿が見えた。
「スパイといえばマティーニか」
「よくもぬけぬけと私の前に姿が洗わせたわね。あなたが、私たちに何をしたか忘れた訳ではないでしょ。今すぐその首を胴体から引きちぎってもいいのよ」
「おいおい。勘弁してくれ。ここはバーだろ。俺は客だぜ」
「注文を受けた覚えはないわ」
「ご挨拶だな。マティーニよりもグレンリヴェットを注いでくれ。俺がいつもそいつを飲んでいたことは覚えているだろ。今日はお前にちょっとした用があって来た」
「裏切り者に飲ませる酒なんてうちにはないわ」
アリスはサミーを睨みつけた。
「怒りで抑制回路が焼き切れる前に出ていって」
出口を指さすアリスにサミーは肩をすくめた。
「また来るぜ」
それから一週間も経たずにサミーはやって来た。相変わらず両手に包帯を巻いているが、見れば手だけではなく首にも包帯は巻かれていた。何かの病気に罹りそれが進行しているのかもしれない。だが、ここに用があってやって来るとなれば、普通の医者では直せない類のものなのだろう。
とは言え、仲間を売った奴に手を差し伸べてやるつもりはなかった。アリスは既製品ではない。いわゆる三大原則はプログラミングされていない。再び門前払いを食らわすと、サミーはやや苛ついた様子で帰っていった。それからしばらく姿を見せる事はなかった。
次にサミーがやって来たのは三月ほど時間が開いてからだった。サミーは全身を包帯で巻き、まるでミイラのような姿だった。勢い混んで店に入って来ると、アリスに指を突きつけた。
「おい、このぽんこつ機械野郎。今すぐ俺を治せ。機械は人間のために存在するんだ。人間の言う事を聞く義務がある」
「いやよ。私は軍用に作られたアンドロイド。状況に応じて命令を拒否できることは知っているでしょ。特に『敵』の命令には絶対に従わないわ」
「くそが」
サミーはテーザー銃を取り出すと突きつけた。アリスを破壊して情報を吸い出す気だ。
「私から知識だけ抜き取っても、あんたじゃ無理よ。あんたが何を望んでいるのかだいたい想像がつく。どうせ何かの呪いにでもかかったんでしょう。いい気味だわ。せいぜい苦しむといいわ」
「そこまでわかっているなら治療しろ!」
アリスは相手のエネルギー場を読み取れる右目でサミーを見た。この右目は重力のわずかな変化からエネルギー場を見ることができた。それは光学レンズでは決して見ることができない世界を映し出す。
サミーの周りには本来彼が持つエネルギー場を掻き乱すように、負のエネルギーが渦を巻いていた。それはただ一つの感情エネルギーではない。いくつもの憎しみや怒りが複雑に絡み合い、ひとつの巨大な渦巻を形成している。いままでサミーが裏切り、陥れて来た人々の怨念に違いない。それらが積もり積もって一つの巨大な怨念を作り出していた。引き剥がすには相当な労力が必要だ。そしてもちろん、アリスにその気はない。
「撃ちたければ撃てばいいわ。どっちにしてもあんたの運命はも終わりよ」
「ふ、ふざけるな。俺は、ただ、みんなが欲しがる情報を与えてやっただけじゃないか」
サミーは再びテーザー銃を突きつけたが、引き金を引けば最後の希望も打ち砕かれることを察したのか、銃をアリスに投げつけた。
「くそう。これを見てみろ」
包帯を外していくサミー。その下から現れたのは目だった。右手、左手、首そして胸にも無数の目が開き、ぎょろぎょろと情報を求めて動いていた。
「いつからか、情報を流す毎に目が開くようになった。悪夢だと思ったよ。なんで俺がこんな目にってね」
「人から情報を掠め取ってお金に変えていた報いね。その目は全てあなたの心が作り上げたものよ」
「俺は情報が欲しいっていう奴らに渡してやっただけだ。こうなるのは俺じゃなくてそいつらのはずだ。俺はただ……」
そう言っている間にも新たな目が開いていく。サミーは力なく膝をついた。
「頼む。お前にしか頼めない。治してくれ。全ての目からの情報が頭に流れ込んできて、気が狂いそうだ」
アリスは何も言わずに背を向けた。
背後で啜り泣きが聞こえた。
やがて啜り泣きは嗚咽に代わり、それが唸り声に変じた。唸り声は高まり叫びにまで達した。
「うおおおー」
もはやそこにサミーはいなかった。そこにいるのは全身を隙間なく目で覆われた百目鬼だった。姿形は醜く歪み、百もある血走った目がアリスを睨みつけていた。
「俺をここまで追い詰めた。全てはお前のせいだ。思い知らせてやる」
百目鬼が叫ぶと身体から目が床を流れるように伝って来た。そしてその目がアリスの足に取り付くと、足が全く動かなくなった。
「このまま俺の中に取り込んでやる」
アリスは咄嗟にドライジンの瓶を掴むと目にぶちまけた。
「ぎゃあ。痛い」
目が退散していく。その隙にアリスはカウンターの下の残霊剣を掴んだ。
「おのれよくも。破壊してやる」
飛びかかって来た百目鬼に対して、アリスは素早く残霊剣を抜き、胸にある一番大きな目を突いた。そしてその勢いのまま窓に突進した。百目鬼の身体がガラスにぶち当たると同時に一気に蹴った。窓が割れて百目鬼は宙に投げ出された。窓の下は絶壁だ。谷底まで遮るものは何もない。百目鬼は冷たい岩肌を転げながらやがて雪煙の中に消えた。谷はすでに暗い影に覆われていた。冷たい風が吹き込んでアリスの髪を揺らした。
サミーの遺体確認は翌朝に行った。深い雪に埋れてしまえばもはや見つけることは困難であるが、落下地点を計算して捜索してみた。遺体は見つからなかった。完全に負のエネルギーに取り込まれてしまったサミー。闇に潜むものとなりどこかで息を潜めているかもしれない。もしそうなら、ここは平穏な谷ではなくなってしまった。きっとサミーは借りを返しに来るだろう。
アリスはサミーが座っていた席に座った。アリスの手の中にはサミーが好んで飲んでいた『ザ・グレンリヴェット18年』のグラスがある。電子ウィスキーではあるが凝縮したフルーツのようなフレーバーが鼻に香る。さすがシングルモルトの代表と言われるだけある。
グレンリヴェット蒸溜所の創業者、ジョージ・スミスはいち早く密造に見切りをつけて政府公認になった。そのことで周囲の密造業者から命を狙われるようになったという。
アリスは政府組織の軍隊を抜けたことで破壊される危険はなくなった。だが、特殊な『目』のお陰でサリーを引き寄せた。こういったことはこれからも起きるだろう。美しき日々の中の棘のようなもの。
それは『ザ・グレンリヴェット18年』の熟成されたエレガントな甘みの奥に隠された、微かな苦味と同じかもしれない。
だがそれを例えて味わい深さというならば、人生とはなんと皮肉なものか。
終
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