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海月と女

 その客がやって来た時、アリスは延々と続く無意味な会話に終止符が打たれることを知った。

「いらっしゃいませ」

 話の腰を折られた常連客のキャメノスは仏頂面をして何杯目かの電子ウィスキーを喉に流し込んだ。だが、コート映像を消した女性の姿に、グラスを置こうとした手が止まった。

 ここはアリスがひっそりと営む深海のカプセルバー。政府の目をかいくぐって営業しているためか厄介事を持ってくる客が多い。アリスというアンドロイドが辿ってきた道を考えてみれば、それも仕方がないことだと思う。

 そんなバーには不釣り合いな女性。胸元が深く切れ込んだ黒いボディスーツは見事なプロポーションを強調し、背まで伸びる豊かな黒髪が歩くたびに揺れた。そして女性の一番の魅力はそのふっくらとした唇だった。笑顔の度にふっくらとした唇が三日月型になり、女性の暖かな心の内を表しているようだった。その笑顔は見る者を包み込み、女性に気を許さずにはいられなくさせた。

 女性はカウンター席に着くと電子メニューを開くこともなく、

「ラクーンを少し甘めで下さい」

と注文をした。

 ラクーンはウォッカベースだが、比較的甘く飲みやすいカクテルだ。女性の笑顔にぴったりの一杯だ。キャメノスはすかさず言った。

「そいつは俺の奢りだ」

 女性が振り向く。

 アリスが剣のある目を向けた。店で客同士が仲良くなることになんら問題はない。ただ、キャメノスが女性に声をかけるのはしょっちゅうなため、相手に不愉快な思いをさせたくはない。

「キャメノスだ。よろしく」

 女性は目の前のグラスを持ち上げると、やや考える振りをしてからキャメノスに向かって持ち上げて見せた。さりげない笑顔ではなく、キャメノスという一人の男に向けた心のこもった笑顔。キャメノスは胸を射抜かれたのを悟った。

 どうやら女性はキャメノスに不快感を持ってはいないようだ。それならばバーテンとして口をだすべきではない。あとは二人に任せてもよいのだが、アリスは女性客にどこか違和感を感じた。アンドロイドにそんなものがある訳でもないのだが、いってみれば女の勘のようなもやもやした感覚だ。見たところオープンプロパティの情報に不審な点はないし、バイオチップを含めた生体改造はしているようだが、危険度の高いものではなさそうだ。

 ならば一体何が気になるのか。客が静かに飲んでいるのであれば詮索などすべきではない。だが、ここは厄介事ばかりあつまる政府管轄外エリアのバーだ。厄介事の芽は早めに摘み取るに限る。アリスは光学レンズでは決して見ることができない、重力場センサーを組み込んだその右目で女性客を観察した。右目はその人物が持っているエネルギー場を重力加速度の変化という形で映し出す。

「どういうこと?」

 アリスは思わずつぶやいた。

 エネルギー場は人それぞれではあるが、たいていの人は似たりよったりのパターンを描く。恨みや妬みといった強烈な思いを持つ人の場合は特徴的なパターンを作り上げる。

 だが、この女性の持つパターンはそういったものではなかった。それはどこか人間離れしている。かといってアンドロイドのパターンでもない。

「あなたと仲良くなると危ないということかしら」

 ライダースーツに身を包んだキャメノスの容姿は紳士とはかけ離れている。女性の表情がやや警戒的なものになった。だがその目は明らかにこのやりとりを楽しんでいた。

「こんなところで出会うくらいだ。人が聞いたらあまり関心しないような仕事をしているかもしれないぜ」

「危険な仕事なの?」

 キャメノスは右腕をまくって傷を見せた。もう完治しているが何かが突き抜けた傷痕が生々しく残っていた。

 キャメノスは『剥がし屋』を生業としていた。対人キャラクターを作り出すバイオチップを撃ち抜く裏稼業である。バイオチップを撃ち抜かれると、人はキャラクターを剥がされてしまうため『剥がし屋』と呼ばれる。傷痕は先日狙撃の後の逃走時にアーマードポリスに撃たれた時のものだ。手を組んだハッカーがタイミングよくウィルス攻撃を仕掛けてくれなければ、背中を撃ち抜かれていたかもしれない。

「あら、可愛そう」

 女性はそう言って傷痕に指を這わせた。

「こんな傷がいくつもあるのかしら」

「勲章さ」

「素敵。見てみたいわ」

 女性が微笑んだ。それは大人の女の笑みだった。

 二人はその後連れ立って店を出ていった。扉が閉まる寸前にキスをしているのが見えた。

 アリスは女性のエネルギー場が気になったが、店を出てしまえば二人に干渉することはできないし、命まで取るようなことはしないだろう。

 それから数日してキャメノスは再び店を訪れた。アリスの顔を見ると盛大なため息をついた。何か言いたいことがあるようだ。

「いらっしゃい。いつものでいいのかしら」

 キャメノスは同意の印に手をひらひら振ると、カウンター席に崩れるように座った。そして再びため息。

「聞いてくれよ」

 そらきた。

「この間そこの席に座っていた女がいただろ。その女がひでえんだ」

 アリスは電子ウィスキーを出しつつ小首をかしげてみせる。

「あいつ、化けていやがった」

「化ける? 女ってそういうものじゃなかったかしら」

「違うんだ。あいつ…」

 キャメノスはそこで一旦言葉を詰まらせた。そして吐き出すように言った。

「たぬきだった」

「たぬき?」

 アリスはそこでようやくあの時の違和感が何であったのか合点がいった。人のエネルギー場ともアンドロイドとも一致しないはずである。彼女は動物だったのだ。

「あなたたぬきとキスしてたの?」

「たぬきだなんて分からなかった。たぬきにバイオチップ埋め込んで、女のキャラクターを演じさせてたんだ。ちくしょう、ふざけやがって」

 人は誰でもバイオチップを通して相手を見る。相手がそう設定しているのならば、たとえ元がたぬきであろうと美人に見えてしまうということだ。それに『剥がし屋』であるキャメノスが引っかかったのだから皮肉としか言いようがない。

 しかしおかしな話もあるものである。いくら肉体改造全盛の時代だからといって、バイオチップ手術は誰でもできるような代物ではない。そもそも動物を人間に変身させたところでどんなメリットがあるのか分からない。

「そんなことしをしてどうするつもりだったのかしら。いたずらにしては手が混んでいるわね」

「DNAを取られた」

 なるほど。DNAは髪の毛からだって採取できるが、肉体改造のため変更が著しい。改造をされていない純粋なDNAを手に入れるためには精子を採取する必要がある。改造のないDNAは高値で取引される。そしてキャメノスのような浮ついた人間は格好の餌食というわけだ。

 キャメノスはウィスキーを飲み干すと天井を仰いだ。

「俺はもう女は信用しねえぞ」

「前にも言っていたわよ。その言葉」

「でもいい女だったんだよなあ」

「たぬきよ」

「うるせえ」

 よほどこたえたのかキャメノスにいつもの威勢の良さはない。ぼんやりと眺める窓の外には一匹の海月が漂っていた。傘をすぼめる度に変化するのでどんな模様なのだかよく分からない。

「もうそんな生き方は止めたら?」

「俺は海月じゃねえよ。海に映る月も海月って言うがそっちは美しいんだがなあ」

「でも儚いことに変わりはないわよ」

「知ってるか。通称連合の月みたいにでっかい人工衛星に王冠の模様が見えた時は願いが叶うって話。あの海月の模様みたいじゃないか」

「人間ってそういう眉唾話が好きよね。確立的には…」

「野暮はよせ。お前らにはロマンってものが分からないのかよ。今日は王冠がみえるかなあ」

 そして夜も深まった頃、店の扉が静かに開いた。入り口には一人の女性が立っていた。背はスラリと高く、長い黒髪がつややかに光っていた。身体の特徴をくっきりと表すレザースーツ。タイトスカートから伸びる足は長くしなやかである。何より特徴的なのはきりりと切れ上がった目だった。知的で挑戦的な目。見つめる男どもを幻惑の渦に飲み込む光に満ちていた。

 女性はカウンター席に座るとドライフォクシーを注文した。eシガーに火を点けるとメントールの香りがほのかに香った。

 アリスは女性に覚えのあるエネルギー場のパターンを見てとった。もちろん先日キャメノスを連れ出した女性と同じようなパターンだ。キャメノスを見るとほんの一瞬寂しそうな表情を見せた。

「なあ、そのカクテル。俺がおごるよ。いいだろう」

 そこにはいつものキャメノスがいた。粗暴で楽天的で過去にこだわらない。今が楽しければそれでいい。夜の海に映る海月のような。月が沈めば消えてしまう。

 それでもアリスはそんなキャメノスの姿を見て、ほんの少し人間を理解できたと感じた。

               終

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