ハードファイヤード
「まずい」
アリゲーターはグラスを机に置くと爬虫類のような目でアリスを見据えた。
アリスはその視線を正面から受けた。これ以上はどうにもならない。ルナシティの地下に設置した小さなポットスチルでウィスキー蒸留を初めて半年。試行錯誤を繰り返し、ようやく口にできるレベルのニューメイクが完成した。加速熟成させてもってきたがそれに対する評価がこれだ。
そもそもウィスキーというのは環境と時間によって造られるものだ。一朝一夕でできるものではないし、直接味見できないアンドロイドがそう簡単に造れるものではない。アリスのメモリーに蓄積された膨大な知識を持ってしても、月という過酷な環境で蒸留するのは無謀とさえ言えた。それをたった一言で片付けられてはたまらない。
「努力はしています」
アリゲーターが疑り深げな視線を送ってよこす。
「『バランタイン・ハードファイヤード』だったかな。貴重なウィスキーをサンプルとして少し渡したはずだ。それがこのルナシティで一体どれほどの価値をもつかわかっているのか? お前のようなポンコツとジジイの命程度で手に入る代物ではないのだぞ」
アリスの友人であるゲン爺は強制労働こそ免除してもらっているが、ルナ解放戦線の監視下にあることは変わりない。アリゲーターの命に従ってアリスが出来のいいウィスキー、しかも電子ウィスキーではなく本物を納めないとゲン爺の待遇が悪くなる。下手をすれば殺されることだって考えられた。ルナシティにおいて下級市民の命は紙屑同然だ。なんとかしなければならない。
だが、打開案はない。
「私だって鬼ではない」
アリゲーターが長い顎髭をさすりながら言った。
「あと一週間やろう。一週間で美味いウィスキーを造って持ってこい。そうすれば今後も今と同じ仕事ができる。失敗すればお前は溶かして銃弾にしてやるし、ジジイに至っては缶詰にしてやる」
硬い人差し指が机を叩く。
「ここ、ルナシティではタンパク源は貴重だからな」
これは脅しでもなんでもない。アテナスに切り捨てられ地球からの補給がなくなった現在、タンパク質は工場で生産される大豆と、死んだ同胞の肉体から吸収するしかない。最初は抵抗があった共食いも、分子レベルまで分解して再生成された缶詰になってしまえば慣れてしまう。それがここで生き抜く条件というわけだ。
「とにかく、もう一度やらせて下さい」
「ああ。君は優秀だと聞いている。期待しているぞ」
アリスが背を向けて部屋を出ようとすると、アリゲーターに呼び止められた。
「前から聞こうと思っていたのだが、その背中の刀は何に使う。アーマードポリスはそんな物じゃあ切れないし、レーザーにだって対抗できないだろう」
だからこそ取り上げられずに済んでいる。
「それでアルコールをかき混ぜるのか?」
「師匠から頂いた大切な物です」
「師匠?」
「津軽屋14代目のエンジニアジョーです」
アリゲーターがぷっと噴き出した。
「お前の師匠というのは憑き物落としのことか。これはおかしい。まさかお前もエンジニアリングができるとかほざく訳じゃないよな」
アリスが黙っていると再びアリゲーターが噴き出すように笑った。
「もういい。下がれ。そんなことができるなら見てみたいものだ」
部屋を出たアリスの背後でいつまでも笑い声が続いていた。
7076坑142層の蒸溜所に戻るとポットスチルの前に陣取ってゲン爺がウィスキーの入ったグラスを傾けては顔を顰める動作を繰り返していた。納品物の味見をしているのだ。確かにゲン爺の舌がなければアリスには味の判断ができない。とはいえ、そう片っ端から味見されては樽が空になってしまう。
「何度飲んでも味は変わらないでしょ」
「いいや、1回目より2回目。2回目より3回目の方がより深いところで理解ができるというものじゃ」
ただの酔っ払いの言い訳にしか聞こえない。その身に缶詰の危機が迫っていることを知らせたほうがいいのだろうか。
「もっとチャーのパラメーターを上げた方がいいかしら」
ゲン爺の眉が持ち上がる。
「バニラ香を出すには本物の樽で熟成させにゃあならんことは知っとるじゃろ」
「じゃあ、スコットランドから運んでもらえるかしら。上物のホワイトオークがいいわ」
地球からの定期便が停止して何もかもが不足品になった。ない物ねだりのアリスの嫌味に対して、ゲン爺はにっこりと微笑んで見せた。
「実はいいニュースが一つある。倉庫に行ってみるといい」
ゲン爺の言葉に従い倉庫を覗いてみると、そこには木製の机が3つ並べられていた。なんでも亡くなった上級市民の家からもらってきたらしいが、この統制下でよく手に入れられたものだ。どれも薄汚れているし傷んでいる部分もあるが、天板をうまく使えば小さな樽くらいなら作れるかもしれない。
「材料はオーク? マホガニーの樽なんて洒落にならないわ」
アリスが引き出しを引くとゴミの中から小さな何かが飛び出してきた。
「ネズミじゃ」
引き出しに潜んでいたネズミは勢いよく倉庫内を駆け回り物陰に逃げ込んでしまった。
「大変なことになったわ。大麦が食い荒らされてしまうかもしれない」
ここルナシティではネズミの繁殖が問題になっていた。おそらく定期船に紛れてやってきたのだろうが、ルナシティは居住坑や工場坑を無数の坑道が繋いでいる。その暗がりに隠れて繁殖したネズミたちは夜な夜な大切な食糧を食い荒らしていた。ネズミ避けの装置も開発はされているが、ルナシティ全てをカバーはできなかった。
「そっちへ隠れた。追い出してくれ」
「無駄よ。箒なんて齧られておしまいよ」
目からレーザーでも発射できればやっつけられるだろうが、こんな物だらけの場所でそんなことをすればたちまち火事になってしまう。
「監視ロボットを置きましょう。いないよりましでしょう」
それからアリスたちは机をバラして樽作りを始めた。材料が少ないせいでクオーターカスクサイズひとつが限界だった。出来上がりはせいぜい45リットル。まあ、ポットスチル自体小型なのでそれで十分だった。
その夜出来上がった樽の内側にチャー、つまり焼きを入れる準備をアリスはしていた。『バランタイン・ハードファイヤード』は樽の内側が鰐の皮のような状態になるまで焼きを入れる。この焼きがウィスキー独特のバニラ香と甘味を創り出してくれる。
火の準備をしていると物陰で動く気配がした。アリスは音の方向を計算して木片を投げた。あまりの素早さにネズミは避けることもできず木片に当たって気を失った。
「さて、大事なタンパク源をどうしたものかしら」
アリスがネズミを確認すると体から何か機械部品がはみ出していた。よく見れば目も機械になっている。どうやらただのネズミではないようだ。こんなことをするのはアリゲーター以外に考えつかなかった。
「そういえば、斬霊剣を使うところ見たいと言っていたわね。いいわ。見せてあげる」
アリスはネズミをケージに閉じ込めると斬霊剣を抜いて経を唱え始めた。そしてネズミのケージの上で何度か斬霊剣を左右に振ってから、一気に縦に振り下ろした。
するとケージの上の空間がぱっくりと割れ、風にカーテンが揺れるように切り口が揺らめいた。アリスは空間の割れ目に斬霊剣を真っ直ぐ突き刺し、その勢いのまま割れ目に飛び込んだ。
そこはさっきまでアリスがいた世界とは全く異なっていた。大地はなく上下左右どこまでも薄暗い世界が広がっている。そしてところどころにゆらめく炎のような光が見えた。アリスの足元にも小さな光が揺らめいている。それはアリスが捕まえたネズミのエネルギー場である。
そのエネルギー場から細い光の糸が伸びている。アリスは意識が拡散してしまわないよう気をつけながらその糸を辿っていった。
いくつものエネルギー場を通り過ぎて糸は一つのエネルギー場にたどり着いた。きっとこれがアリゲーターのエネルギー場であろう。アリスは正面に斬霊剣を構えた。そしてじっとアリゲーターのエネルギー場を見定めた。
「えいっ!」
疾風のごとく剣を振るうと、光の一部が切り取られ、切先が震えるように小さく光り輝いていた。
アリスはその光を取り落とさぬよう注意しながらネズミの元まで戻ると、切先から雫を落とすようにネズミのエネルギー場に光を落とした。
最初アリゲーターのエネルギー場から切り取った光は、逃げ惑うように細かく動いていたが、やがてネズミのエネルギー場に吸い込まれていった。
アリスはそれを見届け、元来た世界へ空間の割れ目から出ていった。
元の世界に戻るとネズミが目を覚ましケージの中で暴れていた。
アリスはケージを持ち上げて樽を焼くための炎の上に翳した。あまりの熱さにネズミは癇癪玉のようにケージ内で暴れ回った。
全く同じ頃、アリゲーターはベッドの中でうなされていた。額には玉のような汗を滲ませ何かから逃れるかのように身をよじった。
「熱い。熱い!」
彼は飛び起きて肩で息をしながら額の汗を拭った。いましがたまで悪夢を見ていた。業火に焼かれる夢だった。そしてその炎の向こう側に見覚えのある顔があった。アンドロイドのアリスだ。アリスは彼が焼かれるのを覚めた目でじっとみつめていた。
翌日も、そのまた翌日もアリゲーターは悪夢を見た。毎晩額に汗をかいてうなされた。そしてその度にアリスの覚めた目に晒された。
「あのアンドロイドを破壊してしまえ」
身を案じた部下に何度そう命令しようかと思った。だが、アリスのエンジニアリング能力を鼻で笑った自分が、アリスの呪いに恐れをなして命令を出したなどと思われたら身の破滅だ。アリゲーターは何でもないと言って部下を下がらせ、まずいと評したアリスのウィスキーを喉に流し込むことしかできなかった。
一週間が経った。やつれ果てたアリゲーターの許にアリスがやって来た。手には一本のボトルが握られている。そして背には斬霊剣を背負っている。アリゲーターは思わず斬霊剣から目を逸らした。
「できました」
アリゲーターは「そうか」とだけ言ってグラスにウィスキーを注いだ。とくとくと小気味のいい音をたててグラスが琥珀色の液体で満たされていく。グラスを持つ手がわずかに震えたが、それを気取られぬように急いで口に運んだ。
味は分からなかった。
アリスの覚めた目に心臓が縮み上がっていたからだ。
「いかがでしょうか」
アリスが見詰めてくる。
アリゲーターは思わず目を逸らす。
「あ、ああ。これでいい」
「美味しいと認めていただけるということですね」
「ああ…ああ。そうだ。認めてやる」
「ありがとうございます。では仕事に戻ります」
アリスはさっと身を翻した。歩み去るその背中で斬霊剣が揺れていた。
アリゲーターの額には昨夜と同じ玉の汗が浮かんでいた。
蒸溜所に戻るといつものようにゲン爺がグラスを傾けていた。
「首尾はどうじゃった」
「もちろんうまく行ったわ」
ゲン爺の眉が持ち上がる。あれから樽をチャーしてニューメイクを仕込んであるが、一週間やそこらで熟成が進むはずもない。先週持っていったウィスキーと味はほとんど変わらないはずだ。
「『バランタイン・ハードファイヤード』とほとんど変わらないそうよ」
「本当かのう。ワシにはこっちの方が随分と高みにあるように思えるがのう」
そう言ったゲン爺の手にはサンプルでもらった『バランタイン・ハードファイヤード』の小瓶が握られていた。小瓶の中で本物のウィスキーがゆらゆらと揺れていた。
終
『バランタイン・ハードファイヤード』はスコットランドのハイランド、ローランド、スペイサイド、アイラの4つの地方の厳選された原種とグレーン原種を使用したブレンデッドウィスキーです。気品ある優雅な味わいが高い評価を得ています。名前に冠されている『ハードファイヤード』というのはハードファイヤリング製法という、スコッチウィスキーを払い出した直後の、まだアルコールが染み込んだ樽の内側を焼き焦がす方法です。樽に染み込んだアルコールでより激しい炎となり樽を焦がすため独特のバニラのような風味をつくりだします。鰐の皮のような状態まで炙られた樽の内側を通常はアリゲーターチャーと呼びますが、バランタインではこれを『ハードファイヤード』と呼びます。
さて今回のお話はルナ解放戦線にウィスキー造りを命じられたアリスが傲慢なアリゲーターに一矢報いるお話です。水が潤沢にあったとして、実際に月でウィスキー造りができるかどうかわかりませんが、もし造ろうとしたらかなり苦労するでしょうね。現在でもウィスキー造りに機械を導入して品質を高めているメーカーはあると思いますが、水や環境、微生物による発酵、そして長い時間をかけた熟成といった肝心なところは全て自然に任せるしかないというのがウィスキーの魅力の一つだと思います。そんな自然の贈り物を科学技術だけでなんとかしようと思っても、きっとうまくいかないのではないかと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?