月と蕎麦

 満月の夜に吹く秋の風はそこまで寒くもなく、やや早足で歩いていると首筋にうっすらと汗をかき、誰もいないからいいだろうとワイシャツのボタンを二つばかり開けて服の中に籠もった蒸しっぽい空気をバタバタと追い出す。
 家業を継がずに月給取りになり都心で務めているのはいいが、商いをやるのとは違うだろう大変さに慣れずにいた。今日も夜遅くまで働き、終電までは少し余裕があるが、呑んで帰るには忙(せわ)しないような時間になり、帰路のどこかで夕飯だけでも食べられないかと店を探しているのだった。
 仕事は好きでも嫌いでもないが、部下がいる手前、見苦しい働き方はできないと少しは踏ん張っていた。
 されども、自分の才覚で仕事をしているわけでもないから、上や下からの注文をほどほどに裁いているとこんな時間になってしまうのだった。
 こんな時間ともなると、道すがらにある商店はことごとく閉まっている。
 八百屋や魚屋なんかは夜更けまでやっている必要もないだろうが、手頃に腹を満たせる一膳飯屋の類(たぐ)いはことごとく閉まっている。居酒屋はやってはいるものの、酒があるところに身を置くという気分でもなかった。
 自分の中にある〝なんか違う〟のわがままのせいで選択肢が狭まっているのはわかっている。けれども、他人の都合でこんな時間になったのだから、最後の最後は自分のわがままを満たせないかと、通りの明かりを見つけては、食べるだけで帰られるところがないかを探していたのだった。
 そんなに都合良く見つかるわけもなく、もう少しで駅に着くところまで来た。そこで横に入る通りの端に屋台が出ているのに気づいたのだった。
 近くに寄り、よく見ると蕎麦屋だ。
 世が昭和に変わってだいぶ経っているというのに、江戸の絵巻に出てくるような夜泣きそば屋が出ていた。
 店の親父と同じぐらいの高さで担ぎ棒で連なっている三尺(約九〇センチ)程度の立方体が二つあり、その両方が障子扉のような囲いの中に調理器具やどんぶりなんかをしまってある。
 小さい頃に祖父(じい)さんから昔話として聞いた夜鳴き蕎麦そのままだった。
 そば屋の親父は頭を丸めているのもあり、そこだけを切り取れば違和感はまったくなかった。
 こんな時間に、何かないだろうかと歩いていた甲斐があった。とも思うが、駅の立ち食いとも違う夜鳴き蕎麦の立ち食いとなると、何が食べられるのかわからない。
 少しだけ距離を置いて立ち止まり屋台を見る。
 品書きとしては、かけに海苔なんかがある。
 とりあえずは今日の夕餉になるわけだから、海苔の蕎麦を頼んでみた。
 そば屋の親父はというと、無愛想に服を着せたようなもので、返事らしい返事もなかったのだが、こっちが言うのを待たずに手を動かし始めたので、まあ、頼んだものが出てくるのだろうと心配せずに待つことにした。
 親父さんの動きを眺めていると、屋台のこの小さい場所に、よくもここまで効率よく食材やどんぶりを納めているもんだと感心してしまっている自分がいた。ほどよい高さに仕切り板があり、蕎麦を茹でる湯を沸かしている七輪の下には蕎麦をしまう棚があり、茹でられるまでに熱くなったら、そこから素早く鍋に蕎麦を入れ湯がくのだった。
 もう一つの鍋の中には蕎麦つゆが暖めてあり、その上下にもどんぶりや具が仕舞ってある。
 無駄のない動きは、一日が終わって集中力がなくなっているとついつい見入ってしまい、ぼんやりとその動きを眺めていた。
 そろそろ全部が仕上がると言う段で、急に精をつけようかと考え始め、親父に玉子があるかと聞いてみる。
 親父は蕎麦を作る流れを止めることなく、目だけを動かしてこっちを見て無いという素っ気ない返事があるだけだった。
 別に愛想を求めてここにいるわけではないが、ここまで無愛想だとかえって潔(いさぎよ)い。
 出てきた蕎麦はぱっと見はなんの変哲も無く、透き通った蕎麦つゆがひたひたになるぐらいに盛りの良い蕎麦と、その上にぱらつかせてある具がほどよく、暖かい食べ物がこんな時間に食べられると言うだけで、なんともいえない満足感に浸れるのだった。
 落語の世界にあるような粋とは違うが、なんとなく忙しなくなっている時代の空気と離れ、違う時間の流れがあるように感じた。
 ほどよく腹も膨れ、そんなに値も張らず、こんなところを今まで知らなかった自分がなにか大きな見落としをしているような気がする。
 人もまばらな電車に乗り、なんとなく蕎麦のことを考える。
 ただ一つ、もう少しの満足を足せないかと考えてみると、それは玉子だった。また明日があることを考えると、蕎麦で滋養をとることができればと思い至ったのだった。
 出勤し、仕事に振り回される。そうすると、大体において似たような時間まで残っている羽目になる。
 だが、いままでと大きく違うのは、夜泣きそば屋の存在だ。
 夜遅くまで働いた上に食べるものがないという理不尽から解放されるだけでも大きい。
 それからというもの、ほぼ連日のように会社帰りに食べるようになった。
 何の変哲も無い、というのは言い過ぎだが、量も少なからず味も悪からずと、一日の終わりの食事としてちょうどいいのが良かった。
 一点、月見蕎麦が行けども行けども品切れになっているのが引っかかった。
 短冊になっている品書きの月見のところに、名刺大にちぎられた紙切れが鋲(びょう)で留められていて、そこに品切れと書いてある。
 長いことそのままのようで、その紙切れの端は丸まり少し煤けていて、貼られてから長い時間が経っているであろうことが見て取れた。出す気が無いなら品書きから外せばいいのにと思ったが、そんな会話をするほど店の親父と距離が縮まっているわけでもない。
 どうしても月見を食べたいという訳でもないのだが、週の後半になると滋養のあるもので乗り切りたいという考えが頭をよぎる。
 ある昼飯時。
 職場の近くにあるいつもの定食屋が満員で入れず、他に店がないかと少し行くと別の定食屋があった。職人が多い町でもあり、しっかりと食べるのに間に合うよう大盛りの取りそろえがある。日替わり定食を頼む。
 焼いた干物とご飯と汁、それに香の物が少し付いている。が、飯の盛りは山のようである。もう一つ目を引いたのが、それに併せて生玉子が付いてきたことだ。それとなく周りを見ると醤油をしっかりとまぶし玉子飯にして丼飯を呑むかのように食べている。
 これで午後の仕事に精を出そうという計らいなのだろう。
 運ばれてきた定食が自分の席に置かれ、同じように玉子飯にしようかと思ったが、急に思いつくことがあり誰にも見つからないようにズボンのポケットの中に玉子を隠し、そそくさと飯をかき込み店を出た。
 意図せず、玉子を手に入れたのだ。
 この生玉子があることで、夜の蕎麦が一段上のものになる。
 午後の仕事は例のように自分の作業と求められる対応と急に発生する雑務が押し寄せ、気づくといつものような夜の時間になるのだった。
 いつもならば疲れ切っていて何の感情も動かないぐらいになっているのだが、今日は違う。
 職場を出るときれいな満月で、蕎麦に玉子を入れたものを月見蕎麦と呼ぶ昔の人の感性になぞらえ、蕎麦の中に浮かぶ玉子に思いを馳せていた。
 きっと、つゆに浮かぶ玉子は、そこまで暖めきれずに乗せられるものだから白身は固まることもなく、透明なぬめりの中に黄身が浮かんでいるようになるだろう。
 蕎麦の上にある海苔は白身に押されて蕎麦の中に沈んでいき、箸をつけるまで潜水させてふやけきってしまうが、具が主であるわけでもなし、なんならば海苔はなくても良い。
 昼間にまっとうなそば屋で食べる月見とは違う、なにやら正体があやふやになっている月見になるだろうが、それはそれで問題はない。月見として食べられるだでいい。
 そういえば、どうやって玉子を蕎麦に落とそうかというのも考えておいた方が良いだろう。
 いつもだと店の親父から蕎麦を受け取ると、少しばかり離れたところで蕎麦をすすっている。ならば、気持ちもう少し離れた上で、背中から親父の視線を遮り、素早く玉子を割って入れなければならない。それに併せて、玉子を割ったあと殻も親父に気づかれないように始末しないと行けない。その辺に投げ捨てておいたら、見つかってしまう。
 それで何か言われるかどうかはわからないが、なにやら完全犯罪を計画するような気持ちになっていた。
 職場を出て駅へと向かう。
 駅から見ると会社へは公園の対角側にある。朝は広場を通り抜けて行けばいいのだが、こんな夜深くだと街頭のある公園沿いの道を通ることが多く、帰りの方が歩く距離が伸びる。
 けれども、早く蕎麦にたどり着くには公園を抜けていく以外の選択肢はない。
 広葉樹で囲まれている公園は端から端まで歩くのに二三分ぐらいかかる。葉が落ち始めているとはいえ、まだ視界を隔てる茂みが多く、踏み入れるのにほんの少しの勇気が必要になる。
 一歩入り駅へ抜ける方へ歩くが、街灯の明かりは弱く、満月が出ているとはいえ公園全体は暗い。
 枯れ葉があるおかげで、自分の足音がザクザクと賑やかしになって少しは気が紛れるが、薄気味悪いのには変わりがない。
 自分の足音、引き詰められている砂利と落ち葉が足で押しつぶされ鳴る音だけが聞こえていた。
 一歩一歩踏みしめているわけでもないが、自分の足音というのを意識したことがなかったのもあり、なにか珍しい物音のように感じ、音に意識を向けていた。
 なにか、自分の歩みと違う落ちがする。落ちた葉を踏む音が自分以外からもする気がした。
 足を止めて耳を澄ます。
 静寂。
 目が慣れてきたからなのか、白々しいぐらいに明るい月の光が作る街路樹の陰がはっきりと見える。ゆっくりと見渡してみるが人影はなく、だだっ広い公園の中に自分一人なのだと思い、また歩き始める。
 自分の足が地面に付くたびに小石と枯れ葉の音がし、気をつけて聞いてみても自分の足音しかしない。
 気のせいかと思い、改めて歩き始めて数歩も経たないうちに、真後ろの方で自分の歩くのと違う枯れ葉が鳴る音がする。
 すぐに振り返ると、そこに野良犬がいた。
 暗がりでもわかるぐらいにこちらを凝視している。
 こちらのことを警戒したり威嚇しようとしているわけではない。犬の事情はわからないが、とにかくこちらを見ている。
 素手で喧嘩をしたらこちらが怪我するだけだし、どうしたものかと少し困惑していた。
 雑種なのだろうが、灰色で体が大きく、骨太そうな前足をしっかりと踏ん張るかのような立ち姿で、野良ながらもなにか凜々しさを感じる。
 とはいえ、こんな夜中に野良犬と対峙している理由はなく、さっさと立ち去りたくもあったが、犬がこちらを凝視している限り下手に動くのも危険かと考え、立ち止まり、犬が動くのを待っていた。
 多分、数分もそうしていなかっただろう。
 犬がいる近くの茂みからさらに枯れ葉が鳴る音がする。群れになって襲われたらどうするかと考えた。拳に力を入れ腹を決めたその瞬間、こちらを凝視している犬をめがけて子犬が駆けていくのが見えた。
 まだ生まれてそんなに経っているわけでもなく、コロコロとした三つの影が近づいていったのだった。
 さっきからこっちを凝視している犬は、この子犬たちの親なのだろう。
 少なくとも犬と喧嘩をするのを避けようと頭の中であれこれ考えたあげくに、腹を決めたところでの子犬の登場に、なにか毒を抜かれたような気持ちになった。そして、なぜこちらを見ているかと言うことを中心に考えるようになった。子犬の影から多分こうだろうと考えたのは、この毛糸玉みたいな子供たちを育てるために何かをしようとしていたのだろう、とまとまった。
 その視点がつかめると、これから寒くなっていく中、子供を抱えて生きていくのも大変だろうに、と思い、少なくともこちらが手を出そうとしない限り襲って来ないだろうと考えたのだった。
 ゆっくり立ち去れば、こっちに来ることはないだろうと結論づけたのだった。
 そこからゆっくりと立ち去ろうとするのを、犬にも判るように動こうと思った。
 体の向きを変えようとしたとき、この子犬たちにやれるものがポケットの中にあるのを思いだした。
 また、犬を正面に見るように体の無形を変えると、できるだけゆっくりと体を動かし、犬に見えるように懐から玉子を取り出し、少しだけ近づきながらも手を精一杯四つの影の方に伸ばし玉子を地面に置く。
 体を動かしたときに、犬は少しだけ身じろぐようにして逃げようとしたが、こちらがゆっくりと動いているのがわかるのか、最後までそこから逃げずにいてくれた。
 地面に玉子を置きゆっくりとそこから後ずさりするように離れる。
 犬は、地面にある玉子にゆっくりと近づいてくる。安全なのを確かめようとしているのか、慎重に匂いを嗅ぎながら地面に転がる玉子に近づいていくのだった。。
 そろそろと玉子をくわえ、持ち上げる。その足下には子犬がまとわりついているが、それをかまうのでもなくゆっくりと子犬が出てきた茂みの方へと戻っていった。
 そこまで見届けると、玉子のない月見蕎麦を食べに駅へと急いだのだった。

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