井守と雛

 古井戸の底からわずかに染み出し続ける水がここの主である。水面は揺れることもなく静かに、新鮮だが激しく入れ替わることもなく、間借りしている虫達にとって春夏秋冬を通して程良い湿り気と温かさのある住処にしていた。
 人間に使われなくなってから時が経ち、地を這(は)う虫や地中に住む虫、甲を持つものや粘膜質のものなど、小石より小さな虫々がここを避暑地や避難所のように使うようになっていた。
 いつの頃からか、井守(イモリ)が住み着いていた。その毎日は静かで平穏であり、井戸の水面のように波一つないものであった。
 野原を花が飾る頃が過ぎ、雨の時期に入る前、太陽が顔を出すと暑くなり、雨が降ると寒くなるという頃、井戸の中は小虫の理想郷でった。
 井戸の底には元は桶だったのだろう木片がいくつかと、乱雑に詰み上がった石があり、そのいくつかが水面から顔を出している。わずかに差し込む明かりを頼りにあちこちにこびりつくように生きている苔の蒼が殺風景な中でささやかな彩りになっていた。
 夜明け前、漆黒と静寂に満たされた井戸の中にわずかに明かりの気配が近づいていた。夜を活動の時とする虫は、もうそろそろ塒(ねぐら)に戻ろうとしていた頃、突然、水を叩く音と甲高い鳴き声が響いた。
 井戸の中で動いている虫々は暗闇でもどこになにがあるか把握できているが、その鳴いている者にはそれがないのか、水に落ちた驚きと暗黒の恐怖でか半狂乱になってる。
 井守は騒がしい鳴き声と水面が激しく揺れるのに我慢がしきれず、どうにかして静かにさせたいと考えた。
 その行動は慈悲の心や哀れみ、もしくは同情などではなく、騒音の元凶をどうしたものかという解消のためであった。井守がまた眠りの深みに戻るのに、騒がしいのを水面から顔を出している石の上に乗せてやれば少しは静かになるだろうという打算だった。
 井守は石の上に引っ張り上げるのにどうしたものか思案した。背後からねらい、咥(くわ)えて引っ張り上げようと考えた。水の中に入ると蛇のように体を横にくねらせて泳ぎ、落ち着てきた者の尻尾とおぼしき背後の出っ張りをやや弱い力で咥(くわ)えた。水面から顔を出している石の陸地に横付けするように引っ張っていき、後ろ足で石にその粘着質な指先を置いて力を入れやすくすると、そのまま石の上に後ずさりをする要領で自分よりも大きいそいつをひっぱり上げたのだった。
 水から出られて安心したのか、騒がしい鳴き声は落ち着き、無闇に体を動かしていたのもやめ、周りを見回して観察しているような身振りをしていた。井戸の上から朝日がうっすらと入ってくる。少し明るくなったからか、大きく体をふるわせ水を飛ばしていた。
 井守は水面から目だけを出してその姿を見つめている。その姿は、目は異様に大きく、それ以上に大きな嘴(くちばし)が顔の大半を占めるほどで、そして、肌は背中が石のようなくすんだ見た目で、腹は蚯蚓(ミミズ)の色をくすませたようで、全身がくすんでいた。井戸の壁と大きく違うのは肌の一面がポツポツと粟立っており、井守の目からでも異形であった。しかし、未知の生き物というわけでない。井戸の上に被さるように枝を伸ばしている木に巣を作った鳥だ。その雛が落ちてきたのであった。
 雛は目をつぶり背を丸め、まるで球になろうとしているかのように縮こまっていた。そして、細かく震え、少しの温もりも逃がさないようにしているかのようだった。
 少しの間であったが、井戸に静寂が戻った。
 眠りにつこうと石の隙間にもぐり込み、ウトウトとしていた。
 しばらくし、眠りの坂をゆっくりと下っていこうとしていると、けたたましい音が再度井戸の中に響きわたり、坂の入り口に呼び戻されたのだった。
 音の主は雛だ。石組みがその鳴き声を跳ね返しているのか、体中に刺さるように騒音が飛んでくる。どうしたものかと様子を見に石の近くまで泳いで行くと、雛は大きな口を開け食べ物を催促していたのだった。
 井戸の中には、迷い込んできた蚯蚓(ミミズ)やら這っている昆虫やらがしょっちゅう湧いてくる。そのおかげで井守が食べるのに事欠くことはなかった。雛が食べるかはわからなかったが、石の間をぬるりと歩んでいる蛞蝓(ナメクジ)を捕まえ雛にやってみると、雛は口に運ばれた物を全力で受け止めるかのように大きく嘴を開け、押し込まれた粘膜の固まりみたいな虫を飲み込むのであった。数度持ってきて与えてみると、とりあえずは満足したのかおとなしくなった。
 やっとのことで井守に安息の時間が訪れたのだった。
 それからというもの、静かにさせるために雛に虫をやるのが日課となった。太陽が顔を出す頃には蛞蝓(ナメクジ)や油虫、真上から日差しが入り込んでくるぐらいには石の間から顔を出した蚯蚓(ミミズ)、暗くなり始めると水の匂いを嗅ぎつけて迷い込んでくる羽虫が来る。捕まえると、雛を静かにさせるために先にくれてやり、満足した頃合いを見て自分の食餌(しょくじ)を摂(と)るようになったのだった。
 井戸の中に漆黒の静寂と薄い太陽の気配が届く波が何度も繰り返された。落ちてきたばっかりの雛は、その見てくれが醜い鼠に嘴と羽をつけたようだったが、羽毛が生え揃い、そして大人の羽となり、餌は自分で捕れるようになっていた。
 それでも井守は時折、大きな獲物が捕(と)れると雛に与えていた。
 羽が生え揃わない頃は、いくら与えたところで腹が空いていると鳴き続け、捕まえども捕まえども雛の嘴(くちばし)の奥に消え井守の腹が満たされないこともあった。鳥らしくなるにつれ、自分で餌を捕れるようになり、井守は自分の食餌だけを気にすればよいようになっていた。
 食餌を確保するのが楽になったのは良いが、なにやら空洞を齧(かじ)るような心持ちがしていた。気まぐれに餌をやっていた理由はそこにあった。
 日は昇り、沈み、風は吹き、雲は流れた。
 雛は鳥としての無意識がその動きに出ていた。背伸びをするかのように羽をばたつかせてみたり、時には激しく羽ばたくそぶりをし、石の陸地から足が離れることもあった。
 ある日の昼下がり。井戸の上に枝を伸ばした木から、木の実が落ちてきた。熟しきっているわけではなく、何かのきっかけで枝から離れてしまったのだろう。
 堅さの残る実が水面を打つ激しい音に井守の視線はそちらに向いた。
 その動きと合わせるように雛も驚き、羽をばたつかせた。
 突然のことに思いもよらない力が出たのか、雛は井戸の壁沿いに螺旋(らせん)を描くように跳び続け上へ上へと昇っていく。
 木の実が起こした波が収まる頃には、雛の姿は見えなくなっていた。
 井守は後ろ足だけで立ち上がると、その姿を目で追おうとしていた。
 前足を伸ばし、仰(の)け反(ぞ)るように井戸の底から空を覗く。
 見上げた空は高く、井守はそのどこかを飛んでいる雛の羽音に想いを馳せるのだった。

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