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ナニモノでもない鳥たち|掌編小説


「最近さあ、ハヤってんの?"ナニモノかになりたい"ってやつ。」

遥は病院の屋上の高いフェンスに額を押し当てながら下を見て、その右手には紙パックのレモンティーを持っていた。私は「それハヤってんね、みんな口にするもん、"ナニモノでもない私"、とか言ってさ。」と、ベンチへ座り、紙パックのいちごミルクのストローをくちびるへ付けたまま、吐き出した息は生暖かくて、人工的な甘ったるい匂いがした。「ナニモノにもなれないヒトばっかなのにね。」遥は掠れた声で呟いてから私の横へ来てベンチの背へ怠そうに凭れた。私は遥と軽く話しながらも、心中穏やかではなかった。

「わたしさ、今度の手術さ、生存率30%なんだって。」

私は遥の明るい声色に気を取られて、その言葉の意味を理解せずに、ただ眼下に広がる景色とその先にある地平線をなぞるように見ていた。「ふ〜ん、成功率…。は?今なんて言った?」私の神妙な声は柔らかな風に乗って遥の鼓膜を振動させる。遥は大きく「アハハ。」と、笑って同じ言葉を繰り返した。それから付け足すようにはっきりと言った。

「もしかしたら、シぬかもしんないんだって、わたし。マジで実感ねえわ。」

その言葉を数分前に聞いたばかりで、心臓は破裂しそうな程、拍動していた。私はフェンスの上に付いている有刺鉄線を見ながら、思考を巡らせた。ここにいる私たちふたりは、檻へ入れられた飛べない鳥のようだなと思った。ただ羽をバタバタさせるだけで、仕方なく二本の細い脚で起立するしかできない、鳥。私は持っていた紙パックをベンチへ置いて、細い脚でスクッと起立してみると、絶望が靴の裏側から這い上がるように感じて脚を手で摩った。「さっきからなにしてるの?」と言う遥に、檻へ入れられた飛べない鳥の話をすると、「ほんとだね。空はこんなに広くて高いのに、もう飛ぶこともできないんだね。」そういう遥の声は、コンクリートへ反響してどこかへ転がってパチンと弾けた。私は紙パックのストローを思いっきり吸って、残りのいちごミルクを全部飲み切る。

ズズズー。

「アハハ、下品だねえ。そりゃあ彼氏できんわ。」

と、笑顔の遥に私は「うっせえわ。」と言ってふくふくと笑った。すると遥も紙パックをギュッと握り潰すようにズズズとレモンティーを飲み干した。そのあとは、遥の病室まで移動して、また来週に来ることを約束して別れた。絢爛な病院のロビーを抜けて、正面玄関へ向かう道中は、さっきの絶望が身体を包んで陽炎のようにゆらゆらと浮遊している。

遥がシぬ?うそだ。絶対に、うそだ。

そう自分に言い聞かせながら、自動ドアが開くと、人工的な風がブワッと吹いて制服のプリーツスカートが風の形に揺れ動いた。そこを通り抜ける頃には、17歳の私の心へ翳りが差して、私はただ起立しながら青い青い空を見上げるしかできなかった。

それから1ヶ月後の遥の手術の前日に私は病院へ行くと、遥のお母様がいらしていた。いつも学校で言われているように、品位のある挨拶をして、少し3人で話をしてからお母様は買い物へ出かけた。先ほどの丁寧なわたしを見て「ちょ、まじめかっ!笑うわ。」と、遥は言いながら、細い腕でベッドをバシバシ叩いて笑った。その反対側の腕には透明なチューブが伸びている。それが遥をこちらに繋ぎ止めている唯一の管に見えて、心がギュッと締め付けられた私は、遥の薄い虹彩を見ながら、骨と皮だけになった手を優しく包んだ。

「私たちさ、ナニモノにもなれなくてもいいし、飛べない鳥でもいいから、生きようよ。ふたりでさ、大学通って、OLして、婚期逃して、くだ巻いて、おばあちゃんなるまで。あ、そうだ。退院したら旅行へ行こうよ!こんなさ、フェンスに有刺鉄線だらけの都会じゃなくてさ、広い海とかに行けば、私たち飛べるかもしんないよ。だから、生きよう。お願いだから…。」

そう言いながら私の声は微かに震えていて、そして熱い彗星のような雫が私から流れ落ちた。すると遥も大きな雫を流しながら、小さく「うん。」と頷いて私の手を握り返してきた。遥の力は細やかで頼りないけれど、透明な視線はしっかりとしていた。

そして、ふたりでその部屋から見える青い青い空を見上げながら、可能性を信じたナニモノでもない鳥たちは、ただ起立して、羽を大きく広げた。






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