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かなしいは透明|掌編小説


かなしいは透明だ。もしかしたら猛毒ほど、やさしいふりをした無色透明なのかもしれない。僕はかなしいに汚染されて冷えた体を温めるために炬燵へ入った。足を入れるといつもより広く感じるのは、クロがいないからだ。つい先週まで僕が炬燵へ足を入れると温かい毛の塊に当たったあとに鋭い牙で足を噛まれた。

「イタ!噛むことないだろ。」

僕は炬燵の中を覗くとクロは何食わぬ顔をして舌で毛並みを整えている。その横へ足を移動して僕はテレビを観はじめた。なのに今日は炬燵の中へ潜れそうなほど足は自由で。それがかなしかった。ポツンと不在になったその場所へ足を動かして確かめるけれど、温かい毛の塊はないし、鋭い牙もなかった。そのままゴロンと寝転んで頭を右へ傾けて窓の外を見た。すると、ふわふわと白くて丸いものが舞い落ちていた。目を凝らすようにそれを視ると、ぼたん雪だった。

「あ、雪だ。クロ、雪が降ってる。」

クロは雪が好きだった。いつも冬になると窓の外へしんしんと降り積もる雪を眺めていた。寒いから炬燵へ入れよ、と声をかけても僕を一瞥してまた窓の外を見ていた。雪は混沌と降り積もり、潔く地面を白く染めていく。

「なあ、クロ。雪、きれいだぞ。」

小さな骨壷に入れられて帰ってきたクロはもう「ニャア。」と返事をすることもない。あのかなしいほど美しい声を思い出して、今度は僕が「ニャア。」と鳴いてみた。その声は壁に反響してパリンと割れて粉々になり消え去ると、首元まで潜った炬燵布団からまた窓の外を見た。すると、黒い塊が窓の外を横切った。僕は慌てて飛び起きて庭へ出ると一心不乱に黒い塊を探した。自然と「クロ?」と名を呼んで、クロの形を探した。桜の花弁のような右耳、黄色いビー玉のような目、白くて長い髭、鋭い牙、丸い頭、しなやかな身体、長い尻尾。けれど、どこにもクロはいなくて、時間だけが経過するとゴム草履から覗く足の指は寒さで赤くなっていた。ブルっと震えたあとに

「居るわけないよな。」

自分に言い聞かすようにつぶやいて、家の中へ戻ってまた炬燵へ足を突っ込んだ。そして、ポツンと不在になったその場所へ寒さでジンジンする足を動かして確かめるけれど、やはり温かい毛の塊はないし、鋭い牙もなかった。

泣くことを我慢すると胸が熱い塊で圧迫されて苦しくなり、それから気を逸らすためにまた窓の外を見た。淋しくて空っぽな心持ちに冷たいぼたん雪が降り積もる。しんしんと、ただ、上から下へ降り積もる。

時間はお薬だから。ね。だから大丈夫。


母の言葉。クロが死んで、ひどく落ち込む僕に声をかけてくれたことを思い出した。時間は薬だと言うけれど、クロを思い出すだけでもかなしくて。クロを構成する要素が思い出を儚くさせるような気がした。桜の花弁のような右耳、黄色いビー玉のような目、白くて長い髭、鋭い牙、丸い頭、しなやかな身体、長い尻尾、そして、温かい体温。その記憶が色を温度を速度を失い、これからの日々の隙間へ溶けて消えてしまうと思うと、怖い。怖くてたまらない。時間は前にしか進まないし、容赦なく押し寄せて総てを腐食していく。時間という強靭なリズムに押し潰されそうになると、窓の外の白い景色と記憶が分け隔てなく繋がって境界線が曖昧になった。そう見えるのは、僕の目に薄い涙の表面張力ができているからだろう。それは瞬きをすれば目のふちから流れ落ちる。一層のこと、思い切り泣いてしまえば楽になるのに。けれど、泣いてしまえば、ぽっかりと空いた心の穴はかなしいでいっぱいになりそうだから。かなしいは透明だ。もしかしたら猛毒ほど、やさしいふりをした無色透明なのかもしれない。けれど──、けれど、それに総てを透過されるわけじゃなくて、窓から見る景色の一部としてそこにあり、クロが与えてくれた、やさしいやうれしいも同じ窓から見えている。ふと窓の外を見た。降り積もるぼたん雪、雪に吸収される音、そして、呼吸をすると肺が白く染まっていくように感じられた。

「大丈夫。」

僕はそう自分に言い聞かせると、ゆっくりと目のふちから熱い涙がこぼれ落ちた。







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