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夕凪のひと|短編小説


〈あらすじ〉
ちぎれたところが酸化して黒くなるような気がした。あの頑丈な夏子おばちゃんが死ぬなんて──
叔母の夏子が死んだ。真琴は地元へ帰ると、海がすぐそこにある叔母の家で棲むことになった。そこで繰り広げられる新たな出逢いと淡い恋。真琴の運命はゆっくりと動き出した。出逢いと恋に翻弄される女性のヒューマンラブストーリー。



やさしい獣のような声を上げて、男は果てた。なんの肥やしにもならないセックスだったけれど、まあ、いいや、と心の中でつぶやいて男から身体を離すとすぐさまバスルームへ向かった。背後から「ツれないなあ。」と、聴こえたけれど無視をした。その「ツれないなあ。」の「ツ」が妙に癪に障る。顔だけはいい男だった──ただ、それだけだ。

私は身体を入念に洗い服を着てバスルームから出ると、男は大きな鼾をかいていたので起こすことなくバッグを持ち部屋を後にした。

ホテルを出てすぐにタクシーを拾い、座席へ腰掛ける頃には酔いは醒めていた。素面の頭で車窓を眺めると都会の街は流動的で規則正しく動いていた。まばゆい雑居ビルに群がるようなネオンが輝きを放ち、その匂いに誘われた人たちが吸い込まれていく──その繰り返しを流れる速度に合わせて眺めた。少し車窓を開けると、都会の空気がヒューッと申し訳なさそうに入ってきて、私の清潔な感情を蝕む。刹那、私の内省した部分が炙り出されたような気がした。

ちくしょうめ。

心の中でそうつぶやくと、ぽよーん、と携帯がだらしなく鳴いたのでバッグから取り出したら、おかんからだった。おかんは、なぜか起点と終点にハイビスカスの絵文字を装飾して、誕生日おめでとう、と書いてあった。私は、夏生まれであるから絵文字で季節感を漂わせたハイビスカスなのだろう、と思い、ありがとう(ハイビスカス)と返信して

あ、そっか、今日、誕生日や。

と、気が付いた。そして、マンションへ到着したので精算をしてタクシーを降り部屋へ入ると、服を脱ぎ捨てタンクトップを着て麻のズボンを履いた。そして、私は、丸めたティッシュがこんもりと盛られた豊穣を思わせるゴミ箱を見つめながら、42歳になった。「確か42歳や。」とつぶやき、自分の年齢が朧げに霞がかかり風流になっていたのに、いちいち西暦を頭の中へ引っ張り出して暗算すると「やっぱり42歳や。」と確信しスクッと肯いた。

少しして冷蔵庫の中へふたつ入り496円のモンブランがあることを思い出した。「よいしょ。」と立ち上がり冷蔵庫を開けてモンブランを取り出すと賞味期限が昨日までだったけれど、それを持ちソファへ移動した。本当は、ショートケーキもあったけれど、今の時期の苺は水っぽくて酸っぱいからという切実な理由でモンブランを選んだ時のギスギスした気持ちを思い出しながら、透明な蓋を取りフィルムを剥がして口へ運んだ。496円で得られる幸福を舌で押し潰しながら、「甘い、甘すぎる。」とひとりつぶやいて、誕生日なのに祝ってくれる人はおかんひとりだけ、という事実がじわーっと骨身に沁みた。そして暴力的に甘いモンブランを食べ終わり残骸をゴミ箱へ突っ込むと

「よりによって、誕生日に名前も知らない男とセックスするなんて、正気ですか?」

と、吐き捨てるようにつぶやいてソファへ座った。薄っぺらい焦燥感をこの暑さが溶かしてくれる、そんな気がしてバーへ出かけたし、小説のネタになるかもしれない、と隣になった顔だけはいい男に口説かれてホテルへ行ったのだ。そんな顔だけがいい男とセックスしたくらいで小説が書けるはずはないし、薄っぺらい焦燥感はより分厚く存在感を増して私を押し潰す。ただ、私が単純に時代へ沿った小説が書けないだけで、自分が悪いのだ。煮詰まって空回ってどうしようもない自分を嘆いた。

私は大学生の頃に有名な賞を受賞して作家になった。当時は時代に持て囃された。しかしそれもすぐに収まると、鳴かず飛ばすの低空飛行を続けて42歳になった。裏では「一発屋」と呼ばれていることは知っていた。私は

一発でも売れたから良いだろうが。

と、思っているので気にしていなかったけれど、筆が乗らない日が続いたので自棄になったらこの様だ。自分が情けなくて歯痒くてたまらない想いを昇華するようにタイピングしたけれど、あまりにつまらな過ぎて全て消して真っさらな画面へ、ただ、あああああ、とタイピングした。

縦書きの文字は、なぜ上から下へ向かうのだろうか。それは上から下へ落ちる雨のように、美しい重力に従い落ちているのかもしれない。

そう思いながらソファへ横になると、どこか遠くへ行きたくなった。

そうや、あの海へ戻りたい──

幼い頃の記憶を辿っていたら知らぬ間に意識は闇へ溶けた。

「真琴、ただ生きたいように自由に生きればいいがやき。なんちゃあ心配しな。」

なぜか叔母が海を眺めながらそうつぶやいた。それからゆっくりとこちらを見据えたその眼差しは何の脈絡もなくて、ただ悲しいほど美しかった。私がその姿に見惚れていると叔母は続けて

「大丈夫やき。私が見よっちゃる。」

と、そう言って静かに微笑んだ──

すると、遠くから音楽が聴こえてきた。それは携帯の着信や、と気が付いたら覚醒した。私は慌ててテーブルの上へ置いた鳴り続ける携帯を取り「もしもし。」と声を出すと、おかんからだった。

「もしもし、真琴?いま大丈夫?あのな、さっき病院から電話があってな、夏子姉さんが亡くなったみたいで──ほんでな、今から私とおとんと病院へ行くがよ。」

おかんは泣いているのだろう、声を詰まらせながらそう言った。私は慌てて起き上がると「うそやろ?」としか言葉が出てこなかった。私はふと、先程見た夢を思い出した。頭へこびりついた叔母の表情をなぞりながら、おかんへ

「私、今日そちらへ帰るわ。今から準備するから着くんが昼過ぎになると思う。じゃあ、またこちらを出る時に連絡するわ。」

そう言って電話を切った。叔母の夏子が亡くなったと聞いても全く実感が湧かなかった。何度も何度も心の中で「夏子おばちゃんが死んだ。」と、唱えても砂を掴んだように浮ついた心持ちだった。ただ、ちぎれたところが酸化して黒くなるような気がした。あの頑丈な夏子おばちゃんが死ぬなんて──私はとにかく身体を動かし急いで準備をしてマンションを後にした。

海が見える空港へ降り立つと、濃い潮の匂いがした。それは、魚や貝の死骸や磯へ生えた海藻が干からびた匂いや、その他諸々の生き物の匂いだ。この海には、生と死が入り交じっていることを思い出すと、ああ、帰って来たな、と実感する。

少し離れた所から濤声が聴こえた。そちらを見ると海は白波が立ち時化ていた。それを心許なく眺めていたら車のクラクションが鳴った。振り返るとおとんとおかんだった。私は車へ駆け寄り荷物を乗せて後部座へ乗り込んだ。

ふたりはいつもと変わらない様子だったけれど、静かな車内でおとんが話をした。叔母は夕方に病院から家へ帰って来るらしかった。

「今から夏子姉さんの家へ片付けに行くからな。お前も来るか?」

おとんは運転しながら訊ねた。私は「うん。行く。」とだけ簡素に返事をするとカーエアコンの音だけが車内を寂しく包んだ。

海が好きだった叔母の家へ向かう道中に

「夏子おばちゃんち、久しぶりやな。」

と、つぶやくとおかんが

「そうやね。夏子姉さんが入院する前やから、ちょうど半年前なんとちゃう?」

と、応えた。私はゆっくりと記憶を辿りながら当時のことを思い出した。

叔母は入院することを拒んでいた。大病を患い山沿いの病院へ入院することが厭だった様子で、いつも気丈な叔母だったのに最後は幼い子どものように駄々を捏ねた。

「海が見えんところへ、わたしは行かんからね。絶対に。」

そう強く言っていたけれど、治療すればすぐに退院できるから、とたくさんの人に説得されて叔母は渋々、山沿いの病院へ入院した。

入院してから見舞いへ行くと叔母は

「海が、見たい。」

と、よくつぶやいた。必ず訪れる終に思うことはとてもシンプルな願望であった。ぽつりとそうつぶやく叔母は、生まれてから海沿いにある小さな街を離れたことはなく、いつも海がすぐ側にある家に棲んでいた。

そして、入院して一ヶ月が過ぎた頃「海が、見たい。」と、たびたび告げるようになり、見舞いへ行くと叔母は海女をしていた頃の海の生き物や磯の生き物の話をした。

「鮑おるやろ。あの鮑はな、こんくらいのもんは取ってもいいけど、こんなに小さいもんは、大きく育てよ、って言いながら石の下へ隠すがや。いまの若い海女は、小さいもんでもなんでも取りよるから、困ったもんやわ。」

叔母は、自分の人差し指を物差しの代わりにして鮑の大きさを測っていたそうだ。その指は皺がたくさん寄って、少しきれいなピンク色をしている、とても働き者の手をしていた。海の話をしているときの叔母の顔は穏やかで何より楽しそうだった。

それから私は、確かめるように叔母の瞳を見た。その色は薄い白色と水色が混じっていた。それは白内障がそうさせるらしいから、周りの人たちは入院ついでに手術をしてもらい、と言ったけれど叔母は

「私は、この眼に海が棲みついたみたいで嬉しいから、白内障の手術はせん。」

と、言って頑なに手術を拒んだ。その言葉に周りの人たちは困惑していたけれど、私はなんだか叔母らしくて、その瞳は夕凪の海のように静かで、ゆったりと世界を視ているような気がして好きだった。叔母から見える海はどのように映っているのだろうか、私は私の中にある海を想った。すると、叔母は

「あの高い山をひとつ越えたら海が見えるのに──」

と、体力が衰え、車椅子で移動するようになっても叔母の願望は切実さを増していた。

「早く治して海が見たい。」

そう強く願っていた。しかし叔母は、海が時化て白波を立てた日に病状が急速に悪化して、病院で息を引き取った。

私たちは叔母の家へ到着すると、玄関を開けてから雨戸と窓も開けた。すると、海から風が入って来て私の鼻をくすぐる。

「すごい海の匂いがする。」

私が窓の外へ広がる海を見ながらつぶやくと、おかんが「そう?わたしには分からんわ。」と、つぶやきながら掃除機を出してきた。おとんは次々と雨戸と窓を開けて澱んだ空気を通した。私は、バケツに水を張り雑巾で台所の床と畳を拭いて、それが終わると布団と座布団を天日に干してから窓辺に腰掛けて、海を眺めた。すると近所の人たちがおとんに声をかけた。みんな叔母が亡くなったことを知ると

「え!あの元気やった夏子さんが死んだんか。ほんまに淋しいなあ。」

と、静かに泣いた。その間もしっかりとした潮騒が家の中で漂っていた。

叔母は生涯独身で、ひとりでこの家に棲んでいた。淋しいときもあったと思うけれど、潮騒が、潮風が、潮香が、景色が叔母を支えていたようなそんな気がした。海はいつも叔母の近くに居た。そして海は、てらてらとたゆたいながら部屋へ入ってきたような錯覚を覚えるほど、そこに在った。

海が、見たい。

叔母の言葉が波のようにリフレインして、私へ迫ってくるような気がした。その時、おかんの声が背後からした。

「夏子姉さんの遺影、どうしようか?」

それから私たちは、押し入れの中から叔母のアルバムを開いて写真を探した。そして一枚、海をバックにして優しく微笑む叔母の写真があった。その顔は凪いだ海のように穏やかな表情をしていた。すると、窓からふわりと風が吹いて私たちを柔らかく包んだような気がした。

「遺影は、この写真にしようか。夏子姉さんらしいし、穏やかな顔しちゅうし──」

おかんはそう言って言葉に詰まると、目尻に溜まる涙を人差し指で拭い、それを手に擦り込むような仕草をした。そして哀しみが滲むこの家は、主人を亡くして途方に暮れているようにひっそりと佇んでいた。私は部屋の中をじっくりと見回した。この家へ泊まりに来たこと、正月の集まり、お盆の迎え火──そこには、叔母の匂いが、声が、姿と共に海もあった。

真琴、ここで棲まんき。

叔母の声が潮風に乗って優しく告げているように思えた。「棲む」という意味はとても土着の匂いがする。動物が巣を作ってそこを棲家にするような土の匂い。その土地に根差し、文化を、歴史を尊重して生活した叔母のように、ここで──この海が見える家で生きたい、とその時に思った。

「私、この家に棲むわ。」

私のその言葉に、通夜の準備をしていたおとんや遺影にする写真を眺めていたおかんは驚いた様子だった。そして、また私がまた何を言い出したのか、と呆れた顔をしていたが、おとんは

「とりあえず、そのことはあとやき。通夜の準備を先にせんといかん。」

と、言ってから納屋から長机を運びはじめた。

通夜の準備が終わると、私は窓から薄暮が漂う海を眺めた。それは、大きく大きく普遍を背負ってそこにいた。荒ぶる時もあれば、凪ぐ時もある、その表情に恋をした叔母のように、私もここで生きる決意を固く結んだ。

すると、叔母が家へ帰って来た。布団へ寝かされて死化粧が施され、いつもの叔母よりも派手に思えたけれど、美しかった。

「夏子姉さん、帰って来たで。ほら、海が見える家に──帰って来たで。」

おかんは泣きながらそうつぶやいた後に、優しく叔母の手を撫でた。

「それから、真琴がな、この家に棲みたいんやって。ほんまに訳の分からん子やで。」

そう言って泣きながらも軽く笑った。すると、近所の人や叔母の友達や遠い親戚の人たちや住職が集まり賑やかな通夜になった。

みんな口々に「夏子さんは若い頃はそりゃあ綺麗やった。」とか「足も速かったし、潜っても一番息が長いし、料理はうまいし、何させても器用な人やった。」とか、過去の叔母の話をした。けれど、みんなは「何で夏子さんは結婚せんかったんがや?」と、言って言葉に詰まると、また誰かが違う話を始めた。

私は、その時、ある秘めた記憶が蘇生を始めた。叔母は二十歳の時に瞳が青い青年と恋に堕ちた。叔母が言うには

「その人の眼の中に海があったがよ。」

と、こっそりと教えてくれた。その青年はアメリカ人で何かの調査でやって来た人らしく言葉も辿々しいのに、一瞬で互いに強く惹かれあったらしい。そしてその青年から一緒にアメリカへ行こう、と誘われた叔母はとても悩んだけれど、私はこの海で生まれてこの海で死んで行く、と決意を固めて誘いを断った、と言っていた。しかし、叔母はその人のことが忘れからなかったのだろう、青い瞳の青年のことをときどき私に話してくれた。

「このことは真琴にだけ言うき、秘密にしといてな。」

叔母は悪戯っぽくそう告げた。私は

「その人は今はどうしてるん?」

と、訊くと、叔母は手紙で文通していたけれど、ある時からぴたりと音信不通になったらしかった。叔母は

「もしかしたら、もうこの世にはおらんかもしれん。病を患ってたみたいやし。そんな気がするがよ。」

と、海を見ながら囁いた。そして引き出しから写真を取り出すと私へ手渡した。

「名前がジョーって言うがよ。優しいええ男やったよ。」

と、少し恥ずかしそうに教えてくれた。そして叔母は

「生きていても、死んでいても、私の中でジョーは変わらず生き続けてちゅう。目を瞑ればすぐそこにおるき。」

そう言うと、窓の外に広がる海を眺めた。

そのことを思い出して、私はみんなが帰り静かになった家の片隅で引き出しからジョーの写真を取り出して近くにあった封筒へ入れた。するとその引き出しの奥にはジョーからの手紙の束が出て来た。その束を結んでいた赤い毛糸。それは、叔母とジョーを結んでいた小指の赤い糸のつもりで結んだのだろうか。そういえば、叔母が言っていた。

「誰にでも、忘れん恋があるき。それが成就しようがしまいが、そのふたりはどこか深いところで繋がっちゅうがよ。それを人は赤い糸というがやき。」

私は棚の上にある英和辞典と手紙と写真を棺桶へ入れてあげよう、と思った。この変色した手紙の束と色褪せた写真は叔母が恋をした証だった。そして私は、叔母の大切な思い出をバッグへしまった。

すると、おとんがやって来て机の上にビール瓶を置いた。「お前も飲むか?」そう訊くから私は「うん。いただこうかな。」と言って机へ移動した。オードブルを肴にしておとんとビールを飲んだ。するとおかんがお風呂から出て来て「私もビールいただく。」と食器棚からグラスを持ってきたので、それぞれが注ぎ乾杯した。

「お前、ここで棲むって、仕事はどうするがや?」

おとんはビールをキューッと飲み干してまたグラスへ注いだ。私は

「私は作家やし、どこでもできる仕事やからこっちへ帰って来てこの家で棲もうと思うちゅう。家も人が棲まんといかんなるし、それでいいと思うけど。」

と、言うと、おとんは

「そうか。じゃあお前の好きにしたらいいわ。その方が夏子姉さんも喜ぶやろ。」

と、言ってエビフライを食べ始めた。私も唐揚げを食べてから「うん。そうさせていただきます。」とつぶやいた。

それから私は葬儀の前に辞典と写真と手紙をこっそりと棺桶へ入れた。叔母は少し痩せたけれど、穏やかな表情を見ているとこの間の夢を思い出した。

「真琴、ただ生きたいように自由に生きればいいがやき。なんちゃあ心配しな。」

「大丈夫やき。私が見よっちゃる。」

叔母は息を引き取った日に私の夢へ現れて励ましてくれた。どうしようもなく弱い私を優しく包み込むように見守ってくれているのかもしれない。この淋しいや哀しいとも言い切れることができない、もっとそれらよりも厚みがあり、清潔な感情が次から次へと溢れて来る。その微細な気持ちを爽やかな海の風が少しだけ揺さぶった。ザザーッと漣がその感情を助長するように部屋へ漂うと、おとんが

「言葉が合ってるかわからんけど、良い葬式やな。海が見えて、波の音が聞こえて、みんなが夏子姉さんのために集まって静かに偲ぶ。過去の人になってしまったけど、それぞれの胸の奥で夏子姉さんは生きちゅうがやな。」

と、参列者の方々を見ながらつぶやいた。私は「うん。そうやね。良い葬式や。」とつぶやいて海を見た。そして、心の中で叔母に話しかけた。

夏子おばちゃん、ありがとうね。私は生きることに不器用でそれなりに曲がったり真っ直ぐになったりしながらこれからも生きていきます。

そう囁くように伝えたら熱い想いが眼から零れ落ちた。鼻を啜る音がこだまする部屋で私は白い菊の花を棺桶へそっと置いた。

そして、叔母は火葬場へ行き荼毘に付された。小さくなって家へ帰ってくると、開け放たれた窓から優しい風が吹き、柔らかい漣の音が部屋へ漂った。それはまるで海が叔母を出迎えているような気がした。

それから私は一週間後に東京から叔母の家へ引っ越した。最初は近所の人たちが物珍しそうに興味を示していたけれど、それも噂と一緒ですぐに過ぎ去ると田舎の景色の一員となった。

「真琴ちゃんは何で結婚せんが?」

隣のミヨさんは叔母の好きだった庭へ腰掛けて私に訊いた。私は

「そうやね。結婚せんでも生きていけるし、結局私はひとりが好きながよ。ミヨさんは結婚して良かった?」

と、ミヨさんへ麦茶を渡しながら訊くと、ミヨさんはそれをひと口飲んでから

「そうやねえ、私らの時代は結婚して当たり前やと思いよったし、周りも煩かったしね。結婚して良い時もあったし、悪い時もあったよ。今は子も巣立って主人も亡くなって、ひとりになってみると、私の人生は妙に淋しいなあ、と思うことがある。結婚しても、せんでも、やっぱり人はどっかで孤独ながやろね。」

そう言ってから麦茶を飲んだ。ミヨさんは「ああ、美味しかった。ごちそうさま。」と言ってから

「けど、そう想ったら夏子さんも真琴ちゃんと同じことを言いよったわ。ひとりが好きや、言うて。夏子さんと真琴ちゃんは、何処となしに似ちゅう。」

と、私の顔を見てから視線が合うと、少し恥ずかしそうに視線を逸らして庭を眺めた。それから少し世間話をしてミヨさんは帰った。

「結婚かあ。」

私はぽつりとつぶやくと無性に虚しくなった。結婚して子を産んで老いて死んで行く──敷かれたレールの上から外れて生きる私は、何のために生まれて来たのかわからずにいた。叔母もこんな気持ちだったのだろうか、そう思うと哀しいため息が漏れた。応えが出ないまま少し経つと、夕凪がやって来たので窓を閉めてエアコンを点けて仕事を始めた。

九月になると朝夕が少し涼しくなって来た。夕凪の頃合いに空気がすっきりとして気持ちが良かったので、友達の京子を誘って近くの居酒屋へ飲みに出かけた。いつもの常連客がいてその人たちと軽い挨拶をしてから席へ座ると、隣の席へ作業着の人たちが数人いた。すると、京子が

「あれ?たもっちゃんやん。」

と、声を出した。ふたりは「最近どう?」とか話しているので知り合いなのだろう、私はやって来たビールジョッキを手に持ちその会話が終わるのを待っていたら、京子が

「あ、この人、友達の真琴。今日一緒に飲みに来てね。真琴、こちらは役所の何ちゃら推進課におる、たもっちゃん。」

と、紹介してくれたから私はジョッキから手を離して互いに挨拶をした。すると、お手洗いから背の高い人がこちらへやって来て隣へ座った。その人を見ると瞳が青くてきれいで、明らかに日本人ではなかった。その瞳は夕凪の海のようだった。静かで、穏やかで、優しい、夕凪が作り出す海。私とその人は見つめ合ったまま固まってしまった。

すると、京子が「あれ?海外から来たの?」と、たもっちゃんに訊くと、私は先生からぎこちなく視線を逸らせた。するとたもっちゃんが

「あ、この方は地質学者のマイケル先生。みんな先生って呼びゆう。大学から来てもろうちゅうがよ。あの岩がゴツゴツした海岸あるやろ?あそこをジオパークへ認定してもらう推進委員会ができてね。そのアドバイザーとして来てもろうちゅう。」

そう言って、たもっちゃんが先生を紹介した。すると、先生は日本語で

「こんばんは。私は、マイケルと言います。よろしく。」

と、丁寧に自己紹介した。そうしたら京子が

「じゃあ、先生に乾杯!」

と、急に音頭を取ったので、その場にいた私たちは慌ててジョッキを手に持ち乾杯した。渇いた喉へ、ビールの炭酸が染み渡る。ジョッキの半分まで飲み、周りを見るとみんな一気にビールを飲み干しているから、私も息継ぎをして飲み干した。そして次は梅酒ロックを注文したら、隣の先生が

「それ、なんですか?」

と、訊くので、私は

「梅酒です。梅のお酒。」

と、言うと、先生は同じのが欲しい様子だったので、梅酒ロックを二杯注文した。そして、やって来た梅酒の香りを楽しんだ後にひと口飲んだ先生は

「あまいね。とてもstrong、強いね。おいしい。」

と、言った。先生と私は再度小さく乾杯して梅酒を飲んだ。

それから先生と辿々しい英語と日本語を交えて話をした。先生は日本のアニメが好きなこと、この土地が好きなことを話した。たもっちゃんと京子とその他の人たちとも酒盛りをしていたら、居酒屋の店主のミサキさんが

「はいはい、もう11時やき、閉店やで。」

と、告げたので私たちは残りのお酒を飲み干して外へ出た。すると先生は

「まことさん、また会いましょうね。」

と、笑顔で言い放つので私も「はい。会いましょう。」と笑顔で返した。そして、みんなと店の前で別れて、京子とふたりで夜道を歩いた。

「ちょっと、真琴、先生といい感じやったやん。ヒューヒュー。」

と、茶化すので私は

「そんなん言うたら、京子はたもっちゃんといい感じやったやん。ヒューヒュー。」

と、言い返して笑った。そして叔母の家へ到着すると京子とふたりで飲み直した。その時に京子は自分が42歳で独身だ、ということに引け目を感じていることを話した。

「なんかね、三十代までは結婚結婚って周りがうるさかったけど、四十代に突入したら誰もひと言も結婚のことを口にしなくなったが。そのギャップが悲惨な感じがしてね。周りはみんな結婚して子育てしてるやん?それを思うと、私は何のために生きてるんやろう、と感じたら、やるせなくてね。まあ、それを選んで生きてきたのは、私ながやけど。」

そう言って焼酎ロックをひと口飲んだ。京子にも漠然とした不安があることは、何となく感じていた。路頭に迷う心はとても曖昧だ。それは太陽を直視したときのように眩しさでその輪郭がボヤけている。それを言葉にしようとすると、溶けて無くなるのだ。

「何なんやろうね、私たち。ひとりで生きていけるくせに淋しいし。結局、なんか寄っかかるもんがないといかんがやろか?」

京子は、窓際でゆっくりと切実につぶやいた。私は「そうやねえ。」と、つぶやいて考えながら

「どうしてやろね。何でこんなに淋しいがやろね。私もわからんがよ。」

そう言って梅酒ロックを飲んだ。自分に納得するような応えが出てこなかった。そのもやもした気持ちを梅酒ロックで洗う。すると、京子は

「実はね、この間、たもっちゃんから告白されたが。けどね、なんかピンとこんと言うか、ビビビッがなくて。やっぱり私は、あの人じゃないといかんがやろか。」

京子の言うあの人とは、奥さんのいる人のことだろう。少し前、その相手の奥さんに子どもができて別れることになったらしい。私は漠然とした不安と過去の恋に未練を残す京子へ

「そんなことないき!いい男はいっぱいおる!ただ私たちが運命の人に出会ってないだけやき。大丈夫。」

そう言うと、京子は薄らと微笑みながら「そうやね。」と、つぶやいて焼酎ロックを飲み干した。

人は誰もが淋しさを抱えている。それは、自分以外の人が埋めてくれるものでもない。誰も埋めることができない穴を私たちは深淵と呼び、その周囲をぐるぐると歩きながら時々それを覗き見る。私たちは深淵に恐怖して足を竦ませながらも、知らん顔をしてまた歩き出すのだ。私はへっちゃらですよ、とつぶやきながら。

京子は「眠いいい。」とつぶやくとソファへ横になり眠ってしまった。私は京子へブランケットをかけて片付けをしてから電気を消すと、漣の音だけが優しく部屋を充した。

翌日の午後、仕事をしていたけれど煮詰まり思考がキャラメル状にカチカチになりそうだったので、気晴らしに家の下の海岸へ向かった。すると、そこへ作業服を着てヘルメットを被った人がふたりいた。私は軽く会釈すると

「まことさん!」

と、私の前を呼ぶのでその方を見ると、先生だった。そして、その横にはたもっちゃんもいた。

「あ!ほんまや!こんにちは。」

と、たもっちゃんは軽く手を振った。私も挨拶をしてふたりへ近付くと先生が

「まことさん、ここで何をしているのですか?」

と、言うので、私は

「仕事の合間の気晴らしに海の空気を吸いに来ました。家があそこなんです。」

私は家を指差した。先生は「そうですか。」と言いながら暑そうにタオルで顔や首を拭いていた。

「暑くないですか?良ければうちで冷たい麦茶でも飲みません?」

と、訊ねると、先生が「ぜひ!」と言うのでたもっちゃんとふたりで家へやって来た。私は縁側を開けて扇風機を回し、そして、氷を入れたグラスへ冷たい麦茶を注いで、茶菓子にクッキーを添えた。それをふたりの前へ出すと先生は麦茶を一気に飲み干した。

「あら、喉が渇いていたんですね。おかわりします?」

と、伝えると、先生は「はい!」と、グラス差し出すので私は受け取り、冷蔵庫から麦茶を取り出して注いだ。それを持って行くと先生はゆっくりひと口飲んだ後に

「とてもすてきな家ですね。beautiful.とても好きです。」

と、家をゆっくりと眺めながら言った。私は、叔母の家を誉められたことが嬉しくなってお礼を伝えた後に、この家のことを話すと、たもっちゃんが

「あ!そういえば、何年も前になるけど、夏にさっきの海岸で作業していたら、声をかけてくれた女性がいて。今日みたいに冷たい麦茶をいただいたことがあったんですよ。そういえば、この家だったと思う!」

と、言ってから頷きながら

「そうや、そうや、あのときの女性が真琴さんの叔母さんになるんやね。すごい偶然で驚いた。」

と、たもっちゃんは叔母が大切にしていた庭を眺めた。その話が、物怖じしないあっけらかんとした叔母らしくて、じわーっとその姿が胸の奥へ滲んだ。たぶん、叔母は暑そうに作業している人が放って置けなくて声をかけたのだろう。

「やさしい人だったのですね。」

先生は、そう言うと麦茶をひと口飲んだ。私は

「優しくて、強くて、頑固で、少し意地悪な叔母でした。」

と、つぶやいた。そして、先生の澄んだ青い瞳を盗み見ると、ひとりでドキリとして、それを誤魔化すために麦茶を飲んだ。

それから三人で世間話をして、今度この家で京子とたもっちゃんと先生で飲むことになり日程を決めると、ふたりは丁寧にお礼を言ってから海岸へ戻った。私は、それを縁側から手を振って見送った。

夏の夕凪は、空気を湿らせて、じとっとしていた。買い物を終えただけなのに汗だくになるからシャワーを浴びて、久しぶりに化粧をした。都会にいた頃のような自己主張する化粧ではなくてナチュラルな化粧だった。それでも化粧をすると心がシャンとなる。

そうこうしているうちにインターフォンがビーッと勢いよく鳴ったので玄関へ行くと、京子が一足先にやってきた。

「これ、ピザ買って来たで。とりあえず、Lサイズ一枚やけど、サイドメニューのポテトとフライドチキンとサラダを買ってあるから足りると思う。あと、真琴が作ってくれるパスタもあるんやろ?それに、この間言ってた美味しいケーキ屋でモンブランとショートケーキも買って来たし、足りるでしょう。」

京子は、そう言うと、テーブルへ食料を置いてソファへ腰かけた。私がパスタを作り終えてすぐに、先生とたもっちゃんがやって来た。簡単な挨拶をしてから、さっそくみんなでグラスへビールを注いだ。そして、やはり京子が音頭を取った。

「えー、お集まりの皆様、残暑が厳しい中、このキンキンに冷えたビールを飲むためにやって来たことでしょう。愛すべき酒呑たちのために、乾杯!」

と、言うと、みんなでグラスを合わせて乾杯した。冷えたビールが喉を通り越すと、おもわず声が漏れた。ピザやパスタを食べながらビールを飲み終わると、先生が

「まことさん、また梅酒を飲みましょう。」

と、持って来た梅酒の瓶を私に見せた。私は「いいですねえ。飲みましょう。」と、ロックグラスと冷蔵庫から氷を持って来ると先生はそれを受け取り梅酒を注いだ。グラスへ鼻を近付けると、ふんわりと梅の爽やかな香りが鼻をくすぐる。軽くひと口含み飲んだ。私が「とっても美味しいです。」と、言うと、先生も「うん。おいしいですね。」と、笑顔でつぶやいた。

4人でゆったりとした時間を過ごしていたらビールがなくなったので、ジャンケンに負けた人が買いに行くことになった。「ジャンケン!ポン!」すると、私が負けて「えー!」と、言いながら財布とショッピングバッグを持ちサンダルを履いたら背後から先生が「ぼくも行きます。」と、言ってサンダルを履いた。

戸惑いながらも、ふたりで玄関を出ると月夜が照らす道をゆっくりと歩いた。交わす言葉がなくて、私の心臓の音が聞こえていないか心配になった。鈴虫だろうか、叢からリンリンと鳴く音が聴こえた。

「あのー、月がきれいですね。」

先生は、夜に浮かぶ円い月を眺めながらつぶやいた。私も先生の視線をスーッと辿って月を見上げた。

「はい。三日前が中秋の名月だったんですよ。だから、月がきれいなんです。」

私がそう言うと、先生は「ちゅうしゅうのめいげつ?」と訊くので私は「そうです。」と、肯いた後に

「ちなみに私は今、ドビュッシーの月の光が聴きたくなりました。とても好きなんですよ。」

と、言うと、先生は驚いたような表情をして

「ぼくもです。」

と、ゆっくりとつぶやいた。すると、先生は携帯をポケットから取り出して画面を操作した後にイヤフォンの片方を手渡した。私が「え?」と言うと、先生は

「debussy.」

と、つぶやいた。私はそれを左耳へ入れると『月の光』が流れた。「あ!」と、私が驚いた声を出すと、先生はゆっくりと頷いて柔らかく微笑んだ。

微細な音のフォルムがふわりと見えた。この月にぴたりとハマる曲が私の胸の奥へ、じわーっと流れ込む。ギュッとなった心の結び目がゆっくりと解けていくような、そんな優しい気持ちになった。音の粒は私たちの心を潤して静かに盛り上がり、そして、スーッと、消えた。

曲が終わると、私は先生へ、イヤフォンを返した。少しの間でも無線じゃなくて有線で繋がれた先生と私。そう思うだけで、とんでもないほど心臓が鳴った。私は、軽く咳払いをしてから

「ドビュッシーが今日の月とぴったりで、心が満たされました。ありがとうございます。」

と、言うと先生は「どういたしまして。」と、優しく微笑んだ。

それから私たちは、自販機でビールを数本買って来た道を戻った。ふたりの間を爽やかな風が吹いた。ゆったりとした心持ちで家へ到着すると、京子とたもっちゃんが「おかえり。」と出迎えてくれた。そして、夜の十二時を回る頃に宴は終わった。みんなでまた集まろう、と約束して解散した。

もう十月なのに大きな台風がやって来るらしい。この家は海に近いけれど海抜が高いので避難はしなくてもいいらしい。隣のミヨさんが教えてくれた。

私は、台風に備えて雨戸を閉めて食品も買い置きした。その日は海も時化て潮風が雨戸に当たりガタガタ音がした。私はその音を聞いて幼い頃の台風を思い出した。

台風が来るというのに隣のシバじいちゃんは、船が気になるから、と港へ行ってそのまま帰らぬ人となった。その時に叔母はその死を悼みながら

「海は怖いきね。人に恵みを与えてくれる。けれど、同等に死も与えるがよ。だから、そのことを人は忘れたらいかん。」

と、言っていた。私は幼い頃に台風が来ると、いつも叔母のその言葉に怯えていたこと思い出したら悪寒がした。

するとインターフォンが「ビーッ!」と鳴った。私はその音に「キャ!」と跳ねてから、こんな日に誰だろう、と思いながら玄関の雨戸を開けると、そこには先生が立っていた。雨風が強く吹き付けていたので、私は先生を玄関へ「とりあえず、入ってください。」と、入れたら先生は突然に、私を抱きしめた。私は驚いて硬直したけれど、先生の雨に濡れた身体から離れてタオルを脱衣所から取って来て手渡した。

「とりあえず、これで拭いてください。」

そう言うと、先生は

「ぼくは、まことさんのことがしんぱいで、だから、きました。」

そう言った瞳は、青くてとてもきれいだった。その刹那に叔母の声が聞こえた気がした。

「その人の眼の中に海があったがよ。」

確かに、先生の眼の中には海があった。それは、今日のように時化た海ではなくて、夕凪の海──

そう思っていたらどうしようもなく感情が揺れ動いて赤い衝動が躰の芯を貫いた。熱を放つそれは、私の心臓目掛けて動き出す。呼吸に意味を持たせたから狂った心は先生を求めた。

言葉は要らなかった。ただ、身体が自然と動いた。

私は、先生に歩み寄ると、背伸びをして軽いキスをした。すると先生は私の腰を自分へ引き寄せて熱いキスをした。粘膜の柔らかさを感じながら長いキスをすると、私は先生と寝室へ行きセックスをした。外では激しさを増す雨風が雨戸へ打ち付けていたはずなのに、それすらも忘れて夢中に身体を動かした。そしてふたりは重なり互いを求め合い絡まりながら眠りについた。

夜が明けると、外は静かになっていた。台風は通り過ぎた様子だった。私は服を着てリビングへ行き、雨戸を開けると雲間から天使の梯子が見えた。海に降りる光の梯子が海を照らす──ただ、圧巻の光景に息を呑んだ。

「crepuscular rays.」

いつの間にか後ろにいた先生は、天使の梯子を指差しながらそうつぶやいた。私たちは自然が織りなす奇跡を堪能しながらソファへ腰掛けて窓から入る涼しい風を感じた。どれくらいそうしていただろうか、時計を見ると朝の六時を過ぎた頃だった。

「コーヒー飲む?」

私はソファから立ち上がり、先生へ問いかけると「はい、飲みます。」と軽く笑顔で頷いた。そして、コーヒーを淹れて先生に手渡すと

「ぼくは、まことさんが好きです。ぼくたちは、また会えますか?ぼくはまた会いたいです。」

と、言うので私は妙に恥ずかしくなった。酸いも甘いも知っていたつもりなのに、この新鮮な感情を持て余している自分が滑稽だった。

「はい、私も会いたいです。」

私は先生の澄んだ青い瞳を見ながらそう言うと、先生は嬉しそうに笑って柔らかいキスをした。

それから私たちは密かに逢瀬を重ねた。その間、私たちは互いのことをたくさん知った。

先生は、蛙が嫌いなこと、猫が好きなこと、ワインよりはビールが好きなこと、泳ぎが上手なこと、死んだ母親を愛していること、母親と自分を捨てた父親を憎んでいること、無人島で生活したことがあること、晴れよりは雨が好きなこと、そして、大切な人を亡くしたこと──たくさんの要素を教えてくれた。私はそれを心へメモするように書き留めた。決して忘れてはならない、と思うと慎重に先生の話を聞いた。

そして、私は互いのことを知っていくに従い心の何処かでは

この恋は期間限定や

と、言い聞かせる自分もいた。別れはきれいさっぱりと爽快なものにしたい、と思っている。この土地で出逢い、一生忘れられない恋だとしても、やがては旅立つ人なのだ、と思うと、心にできた虚しさが少しだけ救われるような気がした。

叔母に相談したらこの状況を何と言うだろうか。そう考えても応えは何も浮かんでは来なかった。たぶん叔母は

「真琴の人生やろ?自分で考え。」

と、カラッとした声音でそう言うに違いない。私は妙に勇気が湧いてきた。

これは誰の道でもない私の道だ。

前向きになればなるほど振り向くと光は強く、翳はくっきりと濃ゆくなった。恋に堕ちた私は無様に踠いては息継ぎが下手くそで、すぐに溺れそうになる。そう頭ではわかってはいても毎日カレンダーを見ては別れの日を惨めに数えた。

「生きると死ぬとは表裏一体なのです。」

そう説教し終えた住職は、緊張からの緩和で息を長く吐きながら決まり文句を話した。叔母の四十九日の法要は身内だけでするつもりだったのに、どこから聞いたのか近所の人や叔母の友達がやって来たので仕出し屋のオードブルを急遽、追加注文した。おかんと私はてんてこ舞いなのにおとんは法要が終わると京子の父親やおじさんたちでビールを飲み始めて楽しそうにしていた。

「ほんまに腹立つきね。」

おかんは、陽気にビールを飲むおとんたちに腹が立ってたまらない様子だったので、私は「まあまあ。」と馬を宥めるようにおかんの背中をぽんぽんと手を当てた。そして、みんなでお斎(おとぎ)の食事をいただいた。おかんと私と隣のミヨさんと三人でビール瓶を運んだり、皿を出したりして忙しく動き回っていたら玄関から「こんばんはー!」と、京子の声が聞こえた。京子は「おじゃましまーす!」と言って入って来るとエプロンを着けて色々と手伝ってくれた。

みんなが食べ終わると、少しゆったりとした時間になったので私たちも食事をいただいた。季節の裂け目に窓を開けて網戸にしていたら涼しい風が吹いて、熱気のある会話を始めたおとんたちの声の合間に漣の音が揺れていた。おかんはそんなおとんたちに

「ほんまに、ここは居酒屋とちゃうから。それ以上飲むなら居酒屋へ行けばいいのに。今日は飲み会とちゃうがで。夏子姉さんの四十九日ながやき。ほんまにもう、腹が立つ。」

と、こっそりと愚痴を言った。ミヨさんはその愚痴に頷きながら「夏子さんがおったらなんて言うやろうね?まあ、あんまり怒っても怒り損やぞね。冷たい素麺食べて身体冷やし。」と、言って素麺をズズズと啜った。私もおかんに「もうほっとき。言うても何の反省もせんし、ただ逆ギレするだけやで。」と言っておかんへ冷たい素麺を渡した。すると、京子の父親が「よ!でかした!あははは!」と大声を出すので京子は舌打ちして「ほんまに喧しいおとんやき。なんかすみません。」と静かに謝った。

それから世間話をしていたらみんながぼちぼちと帰り始めたので、その人たちにおはぎを持して玄関前まで見送った。おかんはみんなが帰る背中へ頭を下げて

「ほんまにありがたいなあ。夏子姉さんはこんなにみんなに慕われていたと思うと、胸がいっぱいになる。」

そう言ってエプロンで涙を拭った。

「夏子おばちゃんに逢いたいなあ。」

私はぽつりとつぶやくと、おかんも

「そうやね。逢いたいわ。」

そう言いながら家へ戻るとおとんたちがまだ飲んでいたからおかんは「はいはい、ビールもなくなったし、今日はおひらき。」と言うとおとんたちは仕方なく飲み終わり帰った。残った人で長机を片付けたり皿を洗ったりした後、それぞれが家路に就いた。そして、京子と私で残り物をいただいたながらビールを飲んだ。京子は

「あれやね、祭りの後の静けさやね。私、こういうゆっくりと息ができる瞬間は好きやき。妙にホッとするというか、次のステージへ動き出す前の静けさというか。」

そう言ってビールをグイッと飲んだあとに

「私ね、たもっちゃんと付き合うことにしたき。いまだにビビビッはないけど、まあ、そのうちにビビッくらいは感じるやろうと思って。いい人やし、仕事もしっかりしゆうし。」

と、照れくさそうに言った。喜びよりも哀しさで溢れていたひとつ前の恋を胸へ収めて次のステージへ進むことを決めた京子へ私は拍手して「よ!でかした!」と京子の父親の口癖を真似した。京子は「何がでかした!や。私のおとんか!何もでかしてないわ!」と言って笑った。それから少しして、私も先生との関係を京子に話すと京子も「よ!でかした!」と言ってふたりで笑った。

「ここまで生きてきたら経験則に沿うことで失敗を回避してきた。いっぱいできた傷をもう作らんように。でも、安全牌な生き方なんてつまらんよね。せっかく一度の命やし堂々と燃え尽きて死にたいわ。」

私は、窓へ映る弱い自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。すると、京子は

「そうやね。ちまちまと小さく固まって生きるの楽しくないよね。私もこれからまた傷を作りながら生きていこうと思う。」

と、言った。そして、ふたりでまた乾杯してビールを一気に飲み干した。

すると、おかんがやって来た。「あれ?どうしたが?忘れ物?」と言うと、あれから帰っておとんと喧嘩したらしい。おかんは「ほんまにあの男、腹たつきねえ!」と息巻いてからビールをグラスへ注ぎグイッと飲んだ。「今日はここで泊めさせて。」そう言って座るとまたビールをまた飲んで「もう離婚や、離婚!」と怒っていたので、京子とふたりで「まあまあまあ。」と話を聞きながら夜が更けた。

秋雨が続いた。どれくらいだろうか、5日は降り続いている。こんなに雨が降り続くので私は仕事に没頭した。時折、窓の外を見ると雨が傷跡のように伸びていた。

いつの間にか夕方になっていたので台所へ行き、料理をした。料理をすると心の凝り固まったものが解消されて、自分が展かれていくような気がする。煩わしいこともあるけれど、都会にいた頃よりも心が凪いでいるのは、こうして料理をしたり、友達と話したり、庭の植物へ水やりをしたり、海を眺めたり、先生と逢ったり、色々な要素が絡まった私を解きほぐしてくれるからだろう。

テーブルへ茄子の南蛮漬け、かき揚げ、鯵の開き、きゅうりの酢の物を並べると、ビーッとインターフォンがなるので玄関へ行くと先生が立っていて、手には梅酒を持っていた。「おつかれさま。」と、言うと先生も「おつかれさま。」と言って家へ入った。そして、ふたりで乾杯してビールを飲んだ。食事をいただきながら今日の話をした。穏やかだった。しかし、この時間はそう長くは続かない、と思うと、それが私の芯をグニャッと曲げる。私は、何かに急かされるように咳払いをして、美味しそうに食事する先生を見た。

「先生。私はこれからも先生のそばにいたいです。ずっといたい。先生のそばで、ご飯食べたり、景色を見たり、笑ったり、怒ったりしたいです。」

そう言葉が溢れ落ちると、先生は少し驚いた様子で言葉を選びながらゆっくりと話した。先生は、三年前に大切な人を亡くしたことを私に話した。そして、あんなに辛い目に遭うことは耐えられない、のようなことを話した後に私から視線を逸らして

「ごめんなさい。」

と、ひと言残して家から出て行った。私は追うこともできず、かたつむりみたいにまあるくなった。哀しいよりも虚しさが優っていた。小説のようにドラマチックな終わり方にもならずに、ただ、あっさりと終焉を迎えた。こうなることを想定していたではないか、そう自分に言い聞かせると温くなったビールを飲み干して、ふいに叔母の遺影を見ると海をバックにして優しく微笑んでいた。

その二日後には秋雨は上がり、きれいに晴れた。私は洗濯物を外へ干して、台所へ行くと足の小指が何かに当たった。「イタッ!」そう言ってしゃがむと、それは先生が持って来た梅酒だった。それを見ると淡々とした日々の中に先生が居なくなったことが身に沁みた。梨の礫のような私は、それを持ち「全部飲み干してやる!」と、声に出すと、熱い塊がポロポロと、ただ、ポロポロと眼から零れ落ちた。それを手で拭い、またしゃがみこんだ。そして鼻水を啜ると、窓から風がゆったりと入って来た。それは海の匂いがする風のはずなのに、ここへ棲んでいる私には感じることができないものになっていた。ここで──この海が見える家で生きたい、と思った気持ちを手繰り寄せた。すると、どこからか叔母の声が聞こえた。

「真琴、ただ生きたいように自由に生きればいいがやき。なんちゃあ心配しな。」

「大丈夫やき。私が見よっちゃる。」

それは、私の内側で響いた声だと気がついた。その言葉が火種となり私は車へ乗り、先生がいる大学へ向かった。

到着すると、校内でその姿を探した。私は走って走って走って──すると、ある教室の前で聞き覚えのある声がした。ゆっくりと足を止めて出入り口を覗くと、先生が講義をしていた。

私はこっそり入室して、一番後ろの席へ着いた。そして、左手でマイクを持ち、右手で板書する先生の後ろ姿を見ていると、私の心はギュッと泡立った。忽ちに私を拐うこの感情に息が苦しくなった。こんなに近くにいるのに、先生は私に気付きもせずに板書を続けている。先生の講義は全く何のことがわからなかったけれど、その声には熱がこもっていた。

すると、チャイムが鳴り生徒たちは立ち上がりと私の後ろにある出入り口から外へ出て、教室には先生と私だけになった。私はぽつんと座っていた椅子から腰を上げて、こっそりと教壇でパソコンを弄っている先生の所まで歩いて行った。その表情を見ていると

私は、やっぱりこの人が好きや。

と、何の飾り気もないシンプルな言葉が浮かんだ。そして私は、勢いよく声を出した。

「先生。」

私が声をかけると、先生は顔を上げて驚いて言葉が出てこない様子だった。だから私は勝手に口火を切った。

「先生。私はいつか死にます。だって永遠なんてないから。それがいつになるかはわからないけれど、ひとつだけ言えることは、先生よりも長く生きようと思います。これからも変わらずあの海の近くで、ご飯食べたり、景色を見たり、笑ったり、怒ったりしながら生きていきます。だって私は強いですから。」

そう言ってから私は

「言いたいことはそれだけです。」

と、言い切り、先生の美しい瞳から視線を逸らすと、教室を後にした。そして走った。走って走って走って、長い廊下を抜けて外へ出ると車へ乗り込んですぐさま発進した。

私は、自分の衝動に駆られた行動に驚きながらも、後悔はなかった。ただやり切ったような爽快感に身体は満たされた。車窓を開けるとジャージャー、と風が勢いよく入って来てとても心地よかった。

42歳でこんなに人を好きになるなんて思っていなかったし、こんな突風みたいな衝動に駆られることもないと思っていたけど、私は今めちゃくちゃに生きている、と強く感じた。

「みっともなくていいし、情けなくてもいい、自分を偽ることなく生きていこう。」

そうひとりつぶやくと海沿いに建つ私の家を目指した。

家へ到着すると、先生が持って来た梅酒をひとりで開けてロックで飲んだ。とても美味しいそれを二杯飲むと、ソファへ横になった。すると、瞼が重くなりそっと眼を瞑った。

「ほんまに真琴は、私に似て負けん気が強いし無鉄砲やなあ。」

叔母はそう言った後に「ガハハッ!」と、笑った。私は近所のガキ大将に意地悪をされて腹が立ちやり返すと、そのうちに取っ組み合いの喧嘩になり鼻血を出した。そして、その足で叔母の所へ行き、事の顛末を話した。

「だって、私、ひとつも悪くないやん。それに女の私に手を出すなんて、あいつはクズ男やで。」

そう言うと、叔母は私の鼻にティッシュを突っ込みながら

「真琴のそういうところ、私は好きやき。痛い目にあったり、辛かったり、間違ったり、することもあるけど、自分を信じて突き進み。」

叔母にそう言われると、とても嬉しくてたまらなかった。なんだか自分の心が強くなるような気がした。それから私たちはアイスクリームを食べながら海岸へ行き、岩へ腰かけて夕凪の海を眺めた──

私は寒さを感じて目が覚めた。「夢かあ。」そうつぶやいて、昔の出来事をそっとなぞった。そして、ソファから起き上がり窓の外を見ると、夕凪が海を平らにしていた。てらてらとたゆたう海面を見ていたら、もっと近くで海を感じたい、と思った。

私は、伸びをして洗濯物を取り込み、海岸へ降りて行き、岩へ腰かけた。ゆっくりとたゆたう波はちょうど干潮時で、少し先まで浅瀬が続いているように見えた。くすぐったい波の音を聴きながら、ただ夕凪の海を眺めた。

「まことさん!」

声のする方を見ると、先生だった。私はスクッと立ち上がると、先生は「さがしました。」と、話した後にこちらへ近付いて来た。

「あのー、ぼくは、弱くて泣き虫です。いまでも人を亡くすことがこわくてたまりません。けど、そのきもちよりも、まことさんのことが好きです。」

先生はそう言うと、大きく息を吸ってから

「ぼくと一緒にいてくれますか?」

と、発熱したような声でつぶやいた。微睡みたいな淡い空気がポーンとはじけた。私は

「はい。飽きるまで一緒にいましょう。」

と、はっきりと伝えると、先生は何も言わずに私を抱きしめた。その優しい体温を感じながら「一緒に生きましょう。」と、先生の耳元でつぶやくと、先生は「はい。生きましょう。」と返事をした。

それからふたりで夕凪に沈む太陽を見た。とっぷりと海へ沈む太陽は、今日の余韻を残しながら灼けて融けそうなほど赤かった。私は先生と手を繋いで、ひそやかであかるい夜のはじまりを感じた。










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