見出し画像

さようなら、バナナ|短編小説

黄色い願望は僕の心を乱暴に鷲掴み、握り潰そうとする。

「どうして来るの!」

姉ちゃんは路地裏に出て来るなり、真紅のくちびるを歪ませて僕に投げつけるように呟いた。その煌びやかな手にはハイブランドの財布と携帯とバナナのイラストが描かれたチープなポーチを持っていて、そのアンバランスさが妙に姉ちゃんらしくて良い。僕は姉ちゃんから目を逸らしながら、

「だって…姉ちゃんがお金置き忘れてるから…。」

と、低温で頼りなく呟くと、

「え?あ!そうだった!?ごめんごめん、コレ今日のご飯代。」

と、言いながら長財布から二千円を出してくれた。僕はお礼の意味を込めて小さく頭を下げるような仕草をして姉ちゃんを見ると、チープなバナナのポーチからタバコを取り出して吸いはじめた。ジジジというタバコの鳴き声が聞こえてすぐに煙を吐き出す仕草は、ネオンから漏れる哀しい色に反射して、その輪郭は滲んでいた。近くて遠い場所から聞こえる喧騒のガチャガチャとした音が耳を這う。

「涼、気をつけて帰りなよ。姉ちゃん今日も遅いから、ご飯食べて、お風呂へ入って、早く寝なよ。」

姉ちゃんはそう言い終わるとすぐに大人しく指に挟まるタバコを見遣ったあと、融けた鉄の様な色をした火種を灰皿へギュッと押しつけた。タバコは死ぬ前にギュッと鳴いて、朝靄のような白煙へ変化すると路地裏の匂いと混ざり合う。それを臭いと感じてしまうのは、僕の鼻がまだ純粋なものしか知らないからだろう。

「じゃあ、僕、帰るね。」

そう言い残して、姉ちゃんに背を向けると、背後から、

「ちゃんと戸締りしなさいよ。」

と、少し翳りのある声が聞こえてきたから、体を捻って振り返り、元気に手を振りまた前を向くと、毒々しいネオンが瞬くカオスの通りへ出た。酔っ払いのおじさんや髪がスーパーサイヤ人みたいなお兄さんや派手な金属をジャラジャラと身に付けたお姉さんたちは、いつか死んでしまうという人間の理を忘れているような風情で皆、愉しそうな顔をしている。その狭間をサラリと通り抜けて、自転車置き場へ向かう途中のコンビニで弁当とスナック菓子を購入して、帰路に就いた。僕の体温であたたかくなったおつりとレシートを冷たいテーブルへそっと置くと、上着を着たまま炬燵へ入り弁当を食べながら、首をぐるりと回して部屋を見渡した。白い壁紙、クリーム色のカーテン、センスのないバナナの置物、バナナのイラストが描いたキーホルダーを点と点を結ぶ様になぞり見たあとに父と母の遺影に視線が止まった。僕は白米を奥歯で噛み潰しながら視線を逸らせるとテレビを点けて四角い画面をボーッと観ていたら、千疋屋の高級なバナナが映った。それと僕の脳みそが接触してバチっと爆ぜると、急に姉ちゃんのことが心配になり、衝動的に電話をしようと思い立ったけれど、姉ちゃんは仕事中だしガキみたいなことはヤメにした。けれど、少しの名残惜しさに心の中で、

姉ちゃん、早く帰ってきてよ。

と、空気に気化するほど薄い想いを吐露した。

僕の姉ちゃんは飲み屋で働いていて、源氏名がバナナというらしい。なぜそんな名前にしたのか問いただしたときに、

「だってかわいいじゃん。」

と、IQ2みたいな返答があるだけだった。姉ちゃんは楽観主義者だ。いつもの口癖が、

「なんとかなるっしょ。」

だから、僕は姉ちゃんのことが心配で心配で堪らなくなる。酒を飲み過ぎていないかとか、悪い男に騙されていないかとか、連帯保証人になっていないかとか、まるで親のような心配をしている。僕は姉ちゃんと違って悲観主義者だ。いつもいつも最悪のシナリオを思い描いては不安に陥り、心の中にできる錆びた感情を持て余している。それは僕が幼い思考しか持ち得ないからか、それとも大人になっても背負いながら呼吸しなければならないものなのかは判らないけれど、今もポツリとできた洞穴に吸い込まれそうになる。ピタリと寄り添う冷たい洞穴に体が痺れそうになり、僕はペットボトルのお茶をグイッと煽りそれを呑み下した。そんな衝動的行動で誤魔化しても、それは消滅することはないと知っているのに、なす術もない幼い自分が悔しくて情けなくて辛かった。

僕が早く大人になれば、姉ちゃんを守れるのに。

その思考は僕がトイレに入っていても、数学を解いていても、サッカーをしていても、根底にはそのことをずっとそこにあり、それは地面から伸びる影のように僕へ付着して離れずに苛む。僕は熱を持つそれを冷ますように、寒いベランダで夜の縁に座りながら景色を眺めると、東京という街が胸を締め付けるほど明るく灯る。そのひとつひとつに気付かないほどの小さな幸福が転がっていることを信じて、いや、願いながら灯りを見続けた。


🍌


その日は雨が降っていた。重力に従い落ちる雨粒は、白糸のように空から垂れ下がり、地面や窓ガラスへ墜落しては死んでいくを繰り返している。炬燵の中でその音を聞きながら僕は本を読み、姉ちゃんは隣で鼾をかきながら夢を紡いでいた。

「母さん…。」

夢の中で死んだ母に再会していることが分かると、僕は両親の遺影へ静寂を孕んだ透明な視線を送った。そこには、会いたい気持ちとは別に自分たちの境遇を哀しく写しているように見えるのは、僕が雨のせいで感傷的になっているからだろう。その横にはセンスのないバナナの置物とキーホルダーがひっそりと息をしていて、その目立つ黄色があの日を思い起こさせる。

父と母は交通事故に遭い死んだ。その日も強い雨が降っていて、病院の霊安室で冷たくなったふたりを姉ちゃんと僕はただボーっと見ていた。頭に包帯を巻いた父と、くちびるの切れた母からは生気を感じることができなくて僕は天井を見上げた。


死んだらお空に還るのよ。


母はよくそう言っていた。だから、天井辺りを漂っているのではないかと思い、キョロキョロと四方を確認したら、人工的な光が作り出す翳が浮くだけで何の気配も感じ取ることができなかった。それは冷たくも暖かくもない世界に放り込まれた様な感覚で、僕は息をするのが精一杯だった。そして、淡々と葬儀が終わり家へ帰ると、姉ちゃんはお骨を箪笥の上に乗せて、そこへ買ってきた果物を丁寧にお供えした。そうしたら、姉ちゃんはいきなりバナナの房から一本取り出して僕に手渡した。「え?」と戸惑う僕に、

「涼も食べなよ。私も食べるから。」

と、言うと、徐にバナナをもう一本取り出して黄色い皮を剥いてパクリとかぶり付いた。そして、それを咀嚼しながら姉ちゃんの大きな瞳から雫が落下した。立て続けに落下する冷たい雫は外の雨のように、重力に従い続けた。

「アレ?なんでわたし泣いてんだろ。」

姉ちゃんは震える声でそう言うと、声を漏らしながら泣いた。その姿は幼い女の子がタダを捏ねるように身を捩るから、ジジジと畳の擦れる音が部屋へ小さく反響する。僕は冷静にバナナをテーブルへ置いて代わりにティッシュを姉ちゃんに手渡すと、姉ちゃんは、

「ありがと。涼がいてくれてよかった。」

と、僕を飾り気のないてのひらで、包み込んだ。僕は熱い塊のような姉ちゃんの体温を肌で感じながら、天井の四方をただ見上げたけれど、やはり父と母の気配を感じとることができなかったから、

「父さん!母さん!」

と、叫んでみたけれど、声はすぐさま雨音に掻き消された。

助けて…。

それは声になる前から雨に吸収されて地面や窓ガラスへ激突する。誰も助けてはくれないことは、その時点で解っていたから幼い甘えはすぐに消え去り、その代わりに青く冷たいドロドロとしたものが僕の血管を駆けずり回る。すると、姉ちゃんは僕の顔を撫でて、

「涼、我慢しないで泣いていいんだよ。」

と、優しく包まれた僕はやっと声を上げて泣いた。それでも無力な自分の泣き声を雨は容赦なく打ち消していく。雨、雨、雨。

「ふぁーん、よく寝たー。」

両手を突き上げながら大きく欠伸をした姉ちゃんはゆっくり起き上がり、手馴れた手付きで化粧をはじめた。その姿を小説を読みながらも視界の片隅に置いて、小さくため息を吐く。

僕がいるから、姉ちゃんは辛い思いをするんだ。

深爪になった時のような詰まった痛みが心を掠めたあと、ひたひたと血が垂れて、それを止める術を持たない自分を嘲笑う。

「どうした?大丈夫?」

姉ちゃんの声に、「大丈夫。」と、返事をして小説に栞を挟み横になると、姉ちゃんの優しい鼻歌が聞こえてきた。それは絨毯の上をビー玉の様にコロコロと転がりながら僕の耳に入る。姉ちゃんは徐にテーブルに置いてあるバナナを手に取り、皮を剥いて食べた。その垂れ下がる黄色い皮は、覇気をなくした僕のように項垂れて情けなく目に映る。それを見ないように目を瞑ると知らない間に眠りに落ちていたようだ。僕はゆっくりと起き上がると、肩に毛布がかかっていて、テーブルには、丸い字で、


台所にある肉じゃが食べて、お風呂に入って、早く寝なさい。じゃあ、仕事へ行ってきまーす♡


と、書かれたメモ用紙があった。僕はそれを指でなぞってから小説へ挟んで、姉ちゃんの作った夕飯をひとりで食べた。


🍌


「死んでしまいたいな。」

僕は影山にそう言うと、影山も

「オレもー。マジ死にてー。」

と、抑揚のない同調をしてから、僕の横でカレーパンを食べている。「死んでしまいたい。」の言葉の持つ濃度が僕と影山とでは違うことは明らかだった。おやつにカレーパンという幸福な食べ物を食べながら、「マジ死にてー。」だなんて言われても説得力を感じられないし、そのことによって僕の願望が軽薄に映るから、影山の前で軽々しく「死にたい。」だなんて言わなければよかったと後悔した。そのあとすぐに影山はカレーパンをものの10秒で食べ終わり、チャイムが鳴ると快活に自分のクラスへと帰って行った。そうしたら先生がやってきて美術の授業がはじまり、自画像を描いていく。僕は鏡を覗き込んだあとに顔の輪郭を描いた。そして目を描いて瞳孔を黒く黒く塗り潰した。すると、先生がやってきて、

「広瀬くん、よく鏡を見て、あなたの瞳は、淡い茶色に輝いているのよ。よーく、自分を観察して、その奥にあるものを描いてみてね。」

先生がなにを伝えたいのか分からなかったけれど、とりあえず「はい。」と返事をして鏡の中の自分を覗き込んだ。薄い色素の虹彩は太陽の光を浴びて瞬いているけれど、僕はもう片方の目の中も黒く黒く塗り潰すと、ふたつの洞穴がこちらをジッと覗き込んできた。それは僕の心の中にある洞穴とリンクして僕に問いかける。


お前は死にたいのか?


それを聞くと、掻き立てるものはドロドロと爛れるような熱さだけで、麻痺した感情のまま僕はまた瞳の中を黒く黒く塗り、平然を装いながらそれへ、

うん、死にたい。

と、心の中で応えると、それは嗤いながらどこかへ消えていったけれど、僕の中で生息していることは気配で分かった。

部活も終わり学校から帰ると、カレーの匂いがプーンと鼻を擽っていく。台所へ向かうと、

「よ!少年!おかえり!」

と、姉ちゃんは元気な反応をするから、それを煙たく感じて、僕は、

「ああ、ただいま。」

と、だけ返答して部屋に入り制服を着替えて冷えた足を炬燵へ入れると小説を開いた。そうしたら、姉ちゃんがカレーを盛った皿を置いて、

「はいはい、ご飯。」

と、テーブルへ皿を置いたあとに僕の小説を取り上げようとするから小さく抵抗して栞を挟み畳へ置いた。そしてふたりでカレーを食べ終わると、姉ちゃんは、

「ごちそうさまでした!…あのさ、話があるんだけど、私ね、結婚しようって言われてさ、悩んでんだよね。涼はどう思う?」

僕は手からスプーンを落とした。

「は?何言ってんの?」

そう返答することが精一杯だった。姉ちゃんが結婚するだなんて考えてもいなかった。なぜか僕の視線は這う様に仏壇へお供えしてあるバナナを映した。黄色い願望は僕の心を乱暴に鷲掴み、握り潰そうとする。すると、姉ちゃんは、

「だ、か、ら、プロポーズされてね。今度弟さんにも会いたいって言うから、今週の日曜日空けといて。」

そう、言い終わったあとに、皿を手に持って台所へ消えた。僕はその後ろ姿を見送りながら、ポツリと呟いた。

「姉ちゃんは、騙されてんだよ。」

その言葉は小さく震えながら畳の上を斜めに転がって姉ちゃんには届かなかった。その日から僕はいつも以上に最悪のシナリオを思い描いて眠るようになった。姉ちゃんのことだから、連れてくる男は、下品で酒飲みでチャラい男だろうと思う。もしそんな男を連れてきたら、僕は身を挺して姉ちゃんを守らなければならない。そう思うだけで熱の塊が頭を打つから、冷たいベランダへ出て星を見た。白く瞬くそれに、

「助けて。」

と、呟いても、何の返事もなくて、夜空はただそこで小刻みに震えていた。

それから日曜日なると、僕は緊張しながら炬燵へ入り小説を読むフリをしていた。すると、玄関のドアが開く音が聞こえて廊下でふたつの足音が近付いてくる気配がした。僕は振り向くことなくその気配を全身で受信した。すると、足音は止まり、男の人の声が聞こえた。

「涼くん、こんにちは、はじめまして。高梨です。」

左後ろから快活な声が聞こえたので、振り返るように身体を捻った。すると、姉ちゃんの横には黒縁の眼鏡をかけて黒いニットを着たスタイリッシュな男がこちらを向いてにこりと笑っていた。僕は意表を突かれて、言葉が出てこなかった。姉ちゃんがどこにでも居そうな至って何の特徴もない人を連れてくるなんて信じられなかった。

いや、待てよ。人は見た目ではない。大事なのは中身だ。中身がクズかもしれないし要注意だ。

そう心の中で呟いたら、姉ちゃんが、

「涼、挨拶しないと失礼でしょ。」

と、言うから、僕は、

「こんにちは。はじめまして。涼です。」

と、憮然に挨拶した。すると、姉ちゃんはその人を炬燵へどうぞと案内して、台所へ消えた。僕は内心、

えーーーーー!気まずっ!!

と、絶叫しながら、本に集中しているフリをしてその人へ話しかけるなオーラを全開にした。すると、その人は、

「涼くん、本好きなんだね。芥川龍之介は僕も大好きだよ。」

と、オーラを突破してこちら側へ侵入しようしているから、僕は、

「そうなんですね。」

と、だけ本から目を逸らさずに軽く応えた。すると、姉ちゃんが台所からやってきて、その人の前に湯呑みを置いて僕の前にはブルーのマグカップを置いて茶菓子をテーブルへ置いた。そこには小包装のお菓子に混ざってバナナが置いてあるから、

何でバナナだよ!

と、僕は笑いそうになったけれど、ここで笑うと負けのような気がして何とか堪えた。

「涼、本読むのやめなさい。」

姉ちゃんは、姉らしく僕に注意するので、僕は本へ栞を挟んで閉じた。姉ちゃんとその人は仏壇へ線香を上げて手を合わせている。それから、またこちらへ戻って来て、炬燵へ入ると、姉ちゃんが、徐に、

「涼、高梨さんはね、役所で勤めてるんだよ。それからわたしたちの出会いは図書館で…」

それを聴いてから僕は他の言葉が頭に入ってこなかった。姉ちゃんが連れてくる男は皆、金にだらしなくて酒飲みのクズばかりと勝手に思い込んでいたから、まさか至って平凡な人だなんて、思ってもいなかった。僕の想像を上回る展開についていくことができなくて、僕はテーブルにある茶菓子を食べた。それはサクサクのクッキー生地に甘いチョコレートが挟まっていて、僕の唾液を奪っていく。

「…涼?聞いてんの?涼?」

姉ちゃんの声で我を取り戻して、慌ててブルーのマグカップに入っているココアを飲んだ。口の中が甘まったるいまま僕は、

「聞いてる、聞いてる。」

と、呟いてその人を見た。その人の黒縁眼鏡の奥にある瞳は茶色く透き通っていた。濁りのないそれに僕は視線を外らせて姉ちゃんを見た。姉ちゃんは、いつもと変わらない様に見えていたけれど、どこかあたたかい雰囲気がする。

「そんでさ、私たち近々に結婚しようと思ってるんだよね。」

そう唐突に言うから、僕は、

「は?向こうの親御さんは大丈夫なの?結婚したら、一緒に暮らすの?姉ちゃんの仕事はどうするの?」

と、頭を駆け巡る問いが口から溢れてきた。それはまるで僕の身体に憑依した父と母が話している様な感覚だった。姉ちゃんは目をまん丸にして、僕を見ている。すると、その人は、

「僕も両親が他界してね、ひとり兄さんがいるけれど、美咲さんとは顔合わせをしていて、結婚を喜んでくれたんだ。…」

それから、その人はゆっくりと誠実に、結婚したら姉ちゃんと僕と三人で暮らすことと、姉ちゃんは仕事を辞めることを話した。そしてその人は最後にこう言った。

「涼くん、僕たちは家族になろうとしているけれど、それはそんなに難しいことじゃないと思うんだ。君の生活はこれまでと変わりはない。けれど僕は君の意見も尊重しようと思っているから、思うことがあれば何でも遠慮なく伝えてね。」

その人はゆっくりと諭す様にそう言った。僕は言葉が喉の奥に痞えて出て来なかった。それに結婚を反対する要素が見つからない。だから、僕はとりあえず、

「わかりました。思うことがあれば伝えます。」

そう言って温くなったココアを口にした。するとその人は、

「良かった。じゃあまた僕と会ってくれる?」

と、先程とは違い子どもっぽく言うから、僕は、「はい。」と、だけ呟いて、茶菓子に混ざる黄色いバナナを見た。それはまるで幸せなふたりに挟まれている僕の様に居心地が悪そうに見えた。それからその人は、うちでご飯を食べて帰って行った。そのあとに姉ちゃんが、

「涼、高梨さんはいい人でしょ。これからも会ってあげてね。」

そう微笑むと、台所からバナナを取って食べはじめた。茶菓子に入っていたものだとすぐに分かったから、僕は緊張が解けて堪らずに笑ってしまった。キョトンとする姉ちゃんに、

「いや、茶菓子でバナナはねぇーわ。」

と、言うと、

「何言ってんの。バナナは一番美味しいんだから。」

と、IQ2みたいな返答があるから、それで僕はまた笑った。姉ちゃんの手には黄色いバナナの皮が揺れていた。その指にはきらりと光るリングが見えた。それから僕はお風呂に入ってベッドへ潜り込むと、今日のことを思い返した。高梨さんというその人は、知性があって品もあった。姉ちゃんのことを大切にしてくれそうだと感じたけれど、僕がいることでその幸せを濁してしまう気がする。

ほんとうはその人も、姉ちゃんとふたりで暮らしたいはずだ。

僕はいつしか悲観的なシナリオを考えているうちに深く深く眠ってしまった。それから週に二回はその人と会う様になった。会うたびにその人ことを知ると「いい人だな。」と、思う自分が赦せなくて奥歯を食いしばった。そして、僕がいなければ、ふたりは幸せになると考えていると、自分の存在を消去したくなる。そう思いながら、この間描いた自画像を見ると洞穴の様な目は静かに沈んでいて、無力な自分そのものに思えた。すると冷たい風が吹いて、フッと洞穴が現れた。


お前は死にたいのか?


そう囁く洞穴に、僕は何も応えることができなかった。背中を何かが這いずり回る感覚に悲鳴を上げそうになる。

家を出よう。

僕の暗い頭の中を照らすその言葉に、吸い寄せられる様に鞄へバナナの貯金箱と一番好きな小説と衣服を数枚入れて、家を出た。とりあえず、何故か夏になると家族でよく行った海に行こうと思った。過去の感傷に浸るなんて、小説へ登場する大人みたいなことをしてみたかったのかもしれない。揺れる電車を乗り継いで車窓から海が見えて来たところで、姉ちゃんから電話があったけれど、出なかった。時間を見ると午後四時を回ったところだった。傾いた太陽が春の匂いを連れてくる。するとまた姉ちゃんから電話があった。僕は電話に出ようか迷ったけれど、出ることはせずに携帯の電源をオフにした。そして海に到着すると、人は居なくて、冷たい風が吹いて波と砂が寄せては返す音だけが耳を伝う。昔、家族で来た頃の景色ではない海岸を歩きながら、ポツリと世界でただひとり取り残された様な気分になる。徐々に父と母が亡くなったときの様な、青く冷たいドロドロとしたものが僕の血管を駆けずり回る。襲ってくるそれに怯えながら携帯を取り出して電源をオンにした。すると、姉ちゃんから、ラインがたくさん届いていた。それを見ていたら、画面に水滴が落ちて、それは続け様に重力に従いポロポロと零れ落ちた。

あれ?

そう思いながら頬を触ると涙が流れていた。頬を伝う涙を手で拭いながら、自分の考えや行為がガキみたいで情けなかった。仄暗い方へ向かう思考に呑み込まれそうになったときに姉ちゃんから電話があった。迷っている親指へ勢いをつけて通話ボタンを押すと、

「涼!?どこにいるの?」

と、いう声を聞いて余計に涙が溢れてきた。幼い子どもの様にしゃっくりが出てくる僕は、

「…ごめんね。僕がいるから姉ちゃんは苦労するんだ。」

そう言うと、姉ちゃんは、

「ばか!涼がいるから、いろんなこと頑張れたんだよ!私の人生には涼が必要なの!」

と、姉ちゃんは大きな声で言った。僕はガキみたいにポロポロと流れる涙を袖口で拭いて、

「今から帰るから。」

そういうと、姉ちゃんは、

「うん。家で待ってるから。」

そう言ったあとに僕は電話を切った。涙と鼻水をハンカチで拭いて、それをポケットへ入れる頃には居座っていた暗い洞穴は嗤いながらどこかへ消えて、ただ殺風景な寂しさが漂ってきた。

また姉ちゃんに助けられたんだ。

どうしようもない僕を姉ちゃんは優しく救い、そして、あたためてくれる。

家へ帰ろう。

僕はポカリと空いた心の中にそう呟いて止めていた足を動かした。

それから、家に帰ると、姉ちゃんは僕をいきなり抱きしめた。そして、熱の塊の様な姉ちゃんは「ばか。」と、言って僕を見つめるその声は潤んでいた。

「涼、生まれてくれてありがとう。私の弟でいてくれてありがとう。これからも一緒だから。」

僕は素直に嬉しくて擽ったいけれど、生まれてはじめて、

生きていてもいいんだ。

と、思えた。純粋なそれは口から零れ落ちそうになるから、さすがに恥ずかしくなり、姉ちゃんの手をそっと解いて、

「ありがとう。僕…。」

と、話していたら、

「涼くん!」

と、高梨さんが僕の前にやってきた。

「無事で良かった…。涼くん…。」

高梨さんは少し不安そうな顔色で話はじめたから、僕はそれを遮る様に、

「高梨さん、すみませんでした。僕は大丈夫です。それから、これからもよろしくお願いします。」

そう言うと、高梨さんは少し驚いた顔をしたあとに口角を上げて、

「うん!もちろん!」

と、言ったあとに握手を求めてくるから、心の中で

欧米か!

と、ツッコミながら、力強く握手をした。そうしたら、姉ちゃんが僕たちに、

「私さ、仕事辞めて来たよ。最後にさ、同僚から花束貰って"さようなら、バナナ。幸せになってね。"って言われたら、涙出てきてさ。感傷的になって帰って来たら、タンスが開いてたり、涼のバナナの貯金箱が無かったから、慌てて電話したけれど、繋がらなくて。もう感情がオーバーヒートだよ。」

と、早口で言いながら、炬燵へ入り、

「あ、それから私、妊娠したから。」

と、あっけらかんと呟いた。高梨さんと僕は慌てて、「えーーー!」と、叫んだあと、姉ちゃんの背後でごちゃごちゃと「身体は大丈夫?」とか、「タバコはやめろよ。」とか言いながらも、溝落ち辺りからじわじわと柔軟な熱が湧き上がってくる。

「涼は、おじさんになるし、高梨さんはお父さんになるんだね。ふたりとも、これからもよろしく。」

そう言う姉ちゃんに僕らはそれぞれに「ありがとう、これからもよろしく。」と、言って、炬燵に入り、くだらない話をした。それはまるで出来立てのホットケーキの様にあたたかくて、僕はそれにそっと触れると、これが小さな幸福と言うんだと、灯りの下でそう感じた。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?