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手の中で燃え尽きた|掌編小説



降水確率が50%の空を見上げながら、ワイシャツの第一ボタンを外して、ネクタイを軽く緩めた。父は煙突から白い煙になって、空をゆっくりと歩いて行く。ただそれをぼんやりと眺めて、春風が凪いだ瞬間に「父さん。」とだけ呟くと、桜の花弁がチラチラと僕の目の前を通り過ぎて行った。後ろを振り返ると、大きな桜の木があって、先日の豪雨で殆どの花弁が散ってしまい、葉桜になりかけていた。そして僕は落ちてきた花弁を手に取って眺めながら、父が亡くなってから泣いていないことに気が付いた。父はこんな息子を見てどう思うだろうか。「翔!どこ行ったの!?」建物の入り口から叔母の声がコンクリートの壁へ反響している。そのモヤっとした声の方へ向かうと、「もうすぐお骨拾いだからここに居なさい。」と、叔母は赤くなった目の周りをハンカチで軽く押さえていた。僕は叔母へ軽い返事だけをして、近くにあったベンチソファーへと腰を掛けたけれど、結局それから40分程待った。

父の骨に目が触れると、つい息を呑んでしまった。歳を取っても筋肉質だった父のカラダは消失して、白く硬い骨だけになっている。僕はもう誰なのかもわからない父の暗い眼窩をジッと見つめた。すると、「お前が好きなように生きれば、いい。」と、父の声が聞こえてきた、気がした。「…翔、大丈夫?」と、叔母の声に我を取り戻して、お骨拾いを続行した。その帰り際に煙突を見上げたら、白く大きな煙は消え去っていて、ただ色素の薄い曇空が広がっていた。

それから叔母と別れて、父の遺骨と一緒に帰宅すると、薄暗い廊下の隅から冬の残骸の匂いがした。仏壇の前に父の遺骨を置いてから喪服を着替えて、シンと静まり返った居間へ戻ると、テレビを付けて炬燵へ足を突っ込んで、何となく庭を見る。そこには、父が生まれた時に祖父が植えたらしい桜の木がある。その花弁も火葬場の桜と同様で、すでに半分散って葉桜へと変化していた。そして、視線をテレビへ移して流れる映像を淡々と消費するけれど、あの時に聞こえた父の言葉が、心の隅でループしている。

「お前が好きなように生きれば、いい、かぁ。」

と、気の抜けた炭酸のような声で、父の言葉を繰り返してみる。すると、疲労のせいか、瞼が重くなってきて、遂にはそのまま横になった。暖かいホットカーペットが僕を緩く包み込む。

「お前、まだ肌寒いのに、そこで寝たら風邪ひくぞ!」

その声で目が覚めたら、炬燵で父がカレーを肴にビールを飲んでいた。「はあ!?父さん!?シ、シんだんじゃ…。」というと、「ああ、シんだ、シんだ。しかしオレの骨はえらく丈夫だったなあ。」と言いながらビールをクイッと呷る。「翔、お前も飲め、飲んでいろんなことを忘れろ。」と言う声色はご機嫌そのものだった。僕はいつものように台所からグラスと、冷えた瓶ビールを持って炬燵へ入り、その栓を抜いて空になった父のグラスへビールを注ぐ。「おお、お前、気が効くじゃないか。」と、父は炭酸で出来たばかりの白い泡と一緒にグイッと飲み干した。「イッキに飲みすぎだよ。」と、僕は言いながら、机にあったスルメを齧る。「オレは丈夫だと思っていたのに、あんなに呆気なく逝くとは思ってもいなかったよ。人は簡単にシぬんだな。」と、父は突然話すと、何処か腑に落ちる面持ちで、湯気の立つカレーを食べている。

そうだった、
人は簡単にシんでしまうんだ。

僕はそのことを忘れていた、母が亡くなった時にそのことを嫌という程思い知ったはずなのに。人の生命は弱く儚いのに、そのことを後ろへ置いて普段は生きている。いくら金持ちでも、容姿が良くても、どんなに恵まれた境遇でもそれは等しくやってくる。グラスに付いた冷たい雫がスーッと机の上に流れ落ちた。

「父さん、シぬってどんな感じがした?」

硬いスルメをカチカチ咀嚼しながらビールを飲んだ後に父に聞くと、

「そうだなあ、最初はヌルっとした。そのあとに、余計なものが流れていくような、爽快な気分がしたよ。生まれてくる時もこんなカンジじゃないかな。」

と、父はその後にガハハと笑いながら頭を掻いた。

人は流れるようにシぬんだ。

そう物思いに耽っていると、「翔、これからはな、誰にも気を遣わずに、お前が好きなように生きれば、いい。オレはな、母さんとのんびりとあちらで暮らしてるから、お前は存分にこの世を楽しんでこい。頑張れ!」と、父は僕の目を見ながら真剣に話をした。そして、カレーを豪快に食べた後、ビールを一口呷った。僕は父さんの顔を見ながらスルメを齧る。「よくカレーを肴にビールを飲めるよね。」と、呆れて言うと、「これが最高にうまいんだ。お前にはわかるまい。」と言って父はまたガハハと笑った。「あ、そういやぁ、お前、自分が葬式で泣いてなかったこと、気にしてただろう?」父はカレーを綺麗に食べ終えて、ビールを飲んでいる。「涙が出てこないって、おかしいよね。」僕がそう言うと、「そんなことはない、人間って案外すぐには泣けない生き物なんだよ。だから気にするな。」そう言って、父さんは硬いスルメをカチカチ噛み始めた。

ピピピッピピピッ!!

大きく冷たいアラームに重たい瞼が開いた。天井のシミをぼんやりと見てからアラームを消して、起きようとしたらカラダが固くなって痛かった。ゆっくりと伸びをしながら起き上がると、そこに父は居なかった。炬燵の上にあった、ビール瓶もスルメもカレーも煙のように消え去っていた。「夢かあ。」と、ポツリと呟いた言葉は、床に転がって何処かへ這っていく。その視線の先には父の遺影があって、父は四角い額の中でガハハと笑っている。

「父さん、さみしいよ。」

そう言うと、はじめて彗星のように涙が頬を通り過ぎた。身を灼くような熱い雫は、ポタリと炬燵へ落ちて弾けると、洞穴のような喪失感は指先まで麻痺している。そのとき、「頑張れ!」と、父の声が聞こえた、気がした。父の遺影を見ながら、僕は言葉を繋いだ。

「うん、頑張るよ。」

それが今の僕の精一杯だった。トレーナーの袖で涙を拭いて、ひらひらと墜落する光を浴びながら庭を見ると、葉の多くなった桜の木に風がそっと吹いて、光を揺らす。ベランダへ続くガラス窓を開けると、ビューッと風が部屋へ入って来て、カーテンや壁を撫でて行った。そして庭では、父と同い年の桜の木から、春風に流された沢山の花弁が何も言わずに手の中に入ってきて、僕はそれをそっと包み込んだ。







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