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触手のような眼

 美しい重力に従い、墜落する雨。自然に素直に切実に建物や地面を濡らしていくその様子を窓ガラス越しに視ていた。眼前に広がる景色は、雨がすべての色素を抜いて雨色へ染め上げる。ふと

いまこの景色を視る私の虹彩はどうなっているだろうか。収縮しているのか、それとも膨張しているのか──

と思い至って、手鏡で確認する。虹彩は収縮、膨張するでもなく、均等の取れた形をしていた。虹彩の清冽な流れは遠くまで澄み、そこは歴とした小宇宙が拡がっていた。そして、その刹那の脈動はいつも私を魅了して離さない。すると、頭の中に合田佐和子氏の絵画の「眼」がイメージとして浮かんだ。四角い枠の中で夢現の淡いタッチで描かれた「眼」は、光の粒子までもしっかりと捕らえている。どこまでも柔らかくしなやかに伸びる色彩は、私を強烈に誘惑する。

そういえば、いま、合田佐和子展やってるんよね。

と、ぷかりと言葉が蘇生した。昨年11月から開催されている『合田佐和子展〜帰る途もつもりもない〜』は、閉幕するらしい。そのことを知ると、どうしても行きたくて行きたくて意識が震えた。横溢する意識は熱を放ちながら衝動と交わると大胆になり、私は、えいやー!、と威勢よく体を動かした。そして、手鏡をしまい、文化活動に命をかけることができる我が人生に悔いはない、とぐんぐんと前進した。



合田佐和子展〜帰る途もつもりない〜



 まずは合田佐和子氏について。彼女はオブジェ、写真、鉛筆、油彩など多彩な才能を開花させた芸術家で、唐十郎氏や寺山修司氏などのアングラ演劇の舞台美術などに参加した。社会の通念や因習にとらわれることなく、自分の価値観を信じ貫いた合田佐和子氏の表現は、様々なひとに支持されている。

 展示は、エジプトへ渡る前期と後期に分割されていた。まずは、前期の作品を濃やかな会話するように堪能する。








 前期のモチーフは退廃的で無機的な灰色の中に潜む静寂のフリをした情熱を受け入れる伏目がちな眼差しや視線が定まっていない作品が多かった。恣意的というよりも規則的に逸らした視線のように思える。視線を逸らす仕草は妖艶で美しく甘い──

 過去に美しい青年がいた。澄んだ眼、麗しい鼻、清純な口、そして、そこから覗く粒のような白い歯。彼を作る要素に「私」という形状が蕩けてしまいそうになるほどに、見惚れた。彼は私の視線に気付いたのだろう、ふいに透明な視線は重なると言葉を無くして、ただ見つめ合った。蜜が糸を引くような甘やかな時間は溶けていく。すると、彼はその視線をプツリと切り伏目になった。私はその行為すらも魅せられた。そして、彼は「そんなに見つめられたら照れるよ。」と、清純な口から言葉を零して、遠景にある海を眺めはじめた。その刹那、永遠を感じた。

 ──と、突如、埃を被った記憶が蘇生した。それは灰色の膜を突き破るように鮮烈に脳みそを駆け巡った。合田佐和子氏の作品から発生した記憶に私の体は素直に反応して、速まる脈動は熱を放った。「いま」の私が自然に素直に切実に限りなく「永遠」に接近した。いまも外で降っているであろう雨のように染め上げられる。すると、私の後方からご婦人たちがいらしたので、止まった足を動かして展示室を後にした。










 後期のカラフルな色彩は前期の退廃的な作風とは違い、見るひと心をそっと撫でる風のようにやさしい。そして、眼。光を反射する虹彩は小宇宙が拡がっていて、眼という器官に対する情念のようなものを感じる。そして、描く「眼」はまるで触手のようだ。鑑賞者の心を躊躇なく触れるような視線を感じる。その視線に不快感はないけれど、心にある地獄を覗かれたような気がした。私は絵画と有機的に生まれた心の交流をしているような錯覚に陥った。夢現の世界観は、私の「眼」に対するオブセッションを刺激する。私はカバンから手鏡を取り出して「眼」を視た。展示室の影響か、虹彩はバランスを崩して収縮していた。やはりそこには小宇宙が拡がっている。私は手鏡を閉じて内省の世界から解放されるように、写真を何枚か撮影した。

 鑑賞後の熱を冷ますために、ベンチへ腰掛けて窓ガラスの外を視ると、解像度が高くなった心はひと匙の花鳥風月を掬い取る。雨が墜落してそこいらを自然に素直に切実に濡らしていた。その姿に意志を感じながら、合田佐和子氏の険しくも嫋やかな途を想い、美術館を後にした。




※高知県立美術館で開催されていた『合田佐和子展〜帰る途もつもりもない〜』は、現在は閉幕ですが、2023年1月28日(土)~3月26日(日) まで、会場は三鷹市美術ギャラリーにて開催されるので機会があれば、ぜひご鑑賞くださいませ。









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