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蝉が鳴くころに 第八話(最終話)|小説


〈あらすじ〉母が亡くなった。私は母の結婚相手のみっさんと葬儀を終えてふたり暮らしをはじめる。それから30歳までみっさんとその暮らしを続けていた。そんなある日、彼氏のタカくんに、大事な話があると誘われて海岸沿いをドライブする。そのときにプロポーズされてから、タカくんの提案でみっさんに会うことになった。そしてみっさんとタカくんと三人でビールを飲んでいると、タカくんが「三人で家族になりませんか?」と私たちへ問いかけた。私たちは悩むことなくその提案を受け入れて、一緒に住むことが決まった。それから三人の生活は穏やかに過ぎていくと思っていたのに、みっさんは認知症になり施設に入所した。




それから二年の月日が流れて、丁度蝉が鳴くころに、みっさんは息を引き取った。容体が急変したと施設のスタッフの方から携帯へ連絡が入って、急いで搬送された病院へ向かったけれど、私たちはみっさんを看取ることはできなかった。ベッドの上で穏やかな顔のみっさんの横で、タカくんはひっそりと泣いていた。なのに、私は泣くことが出来なくて、事務的な作業を淡々とこなした。その間、頭の中は空っぽなのに、少しずつ滲みるように染まるみっさんの記憶。

母の葬儀のときに嗚咽しながら、母の死を悼んでいたみっさん。

食事の際は必ず味噌汁を一口飲んで、「カァー!美味い!」と言うみっさん。

「お命いただきます。」と頭を下げながら庭の花を摘むみっさん。

靴下は左足から履くと良いことがあると縁起を担ぐみっさん。

缶コーヒーはBOSSと決めているみっさん。

金曜日は晩酌の日と決めているみっさん。

仲里依紗の自慢をするみっさん。

私のことを忘れてしまったみっさん。

気付いた時には涙が頬を伝い、書類の上にポタリと落ちた。それを止めることができなくて、私の頬は濡れいく。人の人生には必ず死が存在する。そんなことは小さな頃から知っていたはずなのに、喪失感を埋める術を見つけることができない。小さく呼吸すると、病院独特の消毒液の香りがするだけだ。涙と一緒に鼻水を啜りながら、書類を書き終わりそれを封入してロビーへ向かうと、タカくんがベンチへ腰を掛けていた。私は涙をハンカチで拭きながら、タカくんの隣へ座り、その顔を覗き込むと、目と鼻が赤くなっていた。私に気が付いたタカくんは、

「ボク、みっさんと出会えてほんとうに幸せやった。」

と、震える声で呟いた。私も、

「うん、ほんまにそうやなあ。」

と、呟いて、ふたりで頷きながら泣いた。みっさんはこんな私たちを見て、なんて言うだろうか。

「ふたりとも、泣きすぎやねん。」

と言いながら、いつものゴールデンレトリバーのような笑顔を作るだろうか。そう思っても涙は止まることはなかった。

私はみっさんのことを父だと思っていたけれど、今更、「お父さん。」だなんて言うことはできなかった。いつまで経ってもみっさんはみっさんのままで、私の一部となり存在している。その場所は温かくて擽ったくて柔らかくて、私の大切な部分で、これからも消えることはないだろう。そして、私は知っている。今は喪失感で硬くなった心は、時間が経過すると共に柔らかくなっていくことを。それは母が亡くなった時に経験した。私は自分に小さく、「大丈夫。」と声をかけて、病院の外へ出た。すると、日に照らされた熱いコンクリートの上に蝉の死骸が転がっていた。

「ああ、もう夏が終わる。」

私はそう感じて、胸が苦しくなる。そして近くにあった花壇の土を軽く掘って、蝉の死骸を土に還した。外気の熱に触れると涙が氷の雫のようにポロリと垂れて、ライトグレーのコンクリートを黒く染めた。そして続け様にそこに落ちて、滲む。私は小さく溜息を吐くと、涙は止まりコンクリートと蝉の鳴き声が黒く深く沈んでいるのに、空はただ青く高くそこにいた。


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