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月白の頬杖|掌編小説


スーハー、スーハー。

凡庸な呼吸に耳を澄ませていたら、ふと夏の終わりが聴こえた。蜩が夕映えを背に、鳴き声を上げて私を現実へと連れ戻す。私は蝉が東京でも鳴くことに驚いた。蝉はどうやって硬いコンクリートの地面から這い出て来たのだろうかと、それが不思議でならなかった。揺蕩うオレンジの世界の中でその短い命から奏でられる絶叫は、コンクリートへ墜落して消滅する、それを繰り返している。すると、その反響を引き裂くような声で私の名前が聞こえた。

「雪子。」

そう言いながら秋子は此方へ向かってくる。私は、其方を見ると夕映えと秋子は陽炎になってその輪郭線は滲んでいて、ゆらゆらと揺れている。

「秋子。」

私は精一杯手を振っていたら、ベッドで目が覚めた。久し振りに見た秋子の姿は、はっきりとしなかったけれど、耳に残響している声は元気そうだった。私はベッドからゆっくりと起き上がり窓の外を眺めると、夢の中の景色と同じように、蜩の絶叫とオレンジ色の夕映えが長方形の窓枠に収まっていた。私はゆっくりと深呼吸しながら、あの日の記憶を手繰り寄せる。


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「シにたくてね、どうしてもあっちの世界へ行きたくて。そこに会いたい人がいるのに…でもシねないんだよね。」

秋子の言葉はそれからプツリと途切れた。私は首筋に汗が流れたけれど、無視をして自然と下を向いていた。すると秋子の足元には、蝉の死骸があった。コンクリートからやっと這い出てきて、必死に生きて七日後に死んだ蝉。それは性で決して抗えない、全ての生物に平等に存在するもの、蝉にも人間にも。

何も聞こえなくなった。

私は自分に問う。

これ以上、秋子の話を聞いて、受け入れることはできるのだろうかと。そして、秋子が告げた言葉を理解して寄り添うことはできるのかと。私はその問いの答えはすぐには出なかった。そして、自信は無かった。ただ彼女を哀れんだり、不憫に思ってはいけないと感じていた。それから彼女の悲痛な質問に答えなければと思った私は、覚悟を決めて言葉を選びながら、慎重に開口する。

「たぶんだけど、自分の中の片方は、死にたくて、もう片方は死にたくないのかもしれないね。大体の人には、辛くて耐えられない事が、起きてると思う。誰にでもあるよ、心の中に地獄は。」

頭上では、もうひとりの自分が俯瞰しているような感覚だった。私も次に出てくる言葉は分からない。

「何もできないけれど、辛かったり、我慢出来なくなったら、私で良ければ話聞くからね。」

最後は何を言いたかったのか、結局分からなくなったけれど、その言葉が私の精一杯だった。秋子を見ると、涼しい目元から涙がポロポロと落ちていた。私は秋子の背中をさすった。そんなことしか、出来ない自分の無力さが骨まで滲み入る。痩せた秋子の背中は小さかった。後ろでは蜩の声が薄らと消滅していく。それから少ししてから闇夜がやってきた。私は顔を上に向けると、そこには満月が出ていた。

「あ!!満月!」

私は大声が出てしまった。その横で秋子が笑った。その笑顔は、青白い月光に照らされて、やはり儚かった。

「月白って知ってる?昔の人が中秋の名月を鑑賞して、月が徐々に昇るたびに、夜空が明るく白くなる様を表現した言葉。月白は色でもあって、白に薄い青が差して、まるで月の光のような色で、キレイなんだよ。」

私は満月に興奮した。

「へぇ、月白かぁ。初めて聞いた。月の光がきれいだから、ドビュッシーだね。」

「なるほど、ドビュッシーか。」

優しい月の光に照らされると、頭の中で『月の光』が流れた。横を見ると、少し口角の上がった秋子も、静かに月を見ていた。たぶん秋子の頭の中でも同じ曲が流れているのだろう。そして秋子は頬杖をした。その横顔は月白に染まっていた。

月白と頬杖と少し上がった口角。

その記憶はどれも、薄い青が差している。
あの時ふたりで見た、名月とドビュッシーは忘れないようにと願い、そして心に誓った。







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