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死ぬまでに何度もこの夜をなぞる。|短編小説


ちぎれる光もしたたる翳も逃したくない。簡単に通り過ぎる今ここに、きちんと眼を凝らしたかった。そうしなければ、私の記憶はそのうちに動きのない断片的な写真となり、音を失い、終いにはなかったことになるから。手から伝わる体温も、やさしい声音も、きれいな手も、美しい横顔も、そのうちに熱を失うのだ。

いつもの帰り道。書き殴った落書きみたいな音を立てる電車が横を通り過ぎる中、群青と紺碧を混ぜ合わせたような中途半端な夜空を思い切り吸い込んで肺へ堕とした。肺では夜が血液へ溶け出して反復と増殖を繰り返しながら体内を巡る。

すると、裕が

「あ、心の旅だ。ほら、チューリップの心の旅が聴こえる。いい歌だよね。」

そう言うから私は耳を澄ませた。少し離れたスナックからカラオケが漏れ聴こえてくる。確かにチューリップの心の旅だった。そうしたら、裕は微かなメロディーを頼りに心の旅を小さな声で歌った。それは、自分の内側へ刻むように歌っているように思えて、微量の孤独を感じた私も裕に合わせて小さな声で歌った。

歌い終わる頃に、私の住んでいるマンションが見えてくると、裕は

「じゃあ、ここら辺でさようならだね。」

と、つぶやくから、私はマンションを見上げながら

「うん。でもさようならって嫌だな。さようならってさ、永遠の別れみたいじゃん。だからさようならじゃなくて、バイバイだよ。」

と、伝えた。すると、裕は「たしかにそうだね。」とつぶやいて私から手を離してコートのポケットへ手を入れた。

「じゃあ、また明日。」

私たちはそう言い合い、バイバイした。高く挙げた手は冬が体温を吸い取るけれど、私は裕が見えなくなるまで手を振った。

そして、次の日から裕は私の前から消えた。忽然と、という言葉がしっくりくる。携帯は繋がらないし、裕の住んでいたマンションは空っぽで人が住んでいた形跡がなくなっていた。なんの前触れもなくて、唖然とするしかなかった。

「じゃあ、ここら辺でさようならだね。」

裕の声音が胸の奥で残響して滲む。そして、手から伝わる体温を、やさしい声音を、きれいな手を、美しい横顔を思い返すと、哀しいが目からこぼれ落ちた。ポロポロと、ただ、ポロポロと。

失恋だなんて、そんな簡単な言葉で置き換えれない気持ちでいっぱいだった。苦いし、憎いし、哀しいし、愛おしい。いろんな気持ちを大きな鍋へぶち込んでぐつぐつと煮込んでいるような、そんな気持ちが体内で渦巻いていた。

それから半年が過ぎる頃、私の心へできた傷はまだ生々しいけれど、日々の生活を送る中で裕が少しずつ色褪せていく気がした。手から伝わる体温も、やさしい声音も、きれいな手も、美しい横顔も、ボヤがかかるようになった。このまま忘れてしまおう、そう思った。時間は前にしか進まないし、あの時の裕を思い返したところで取り戻すことはできないのだから。裕の言葉や記憶をひとつふたつ数えたところで、それはいつか消えてなかったことになるのだ。

心の傷に瘡蓋ができた頃、コンビニでおにぎりを買って外へ出ようとしたら男性と肩がぶつかった。お互いに顔を見ると、その男性は裕の友達のナリ君だった。ナリ君は私の顔を見て「あっ。」とつぶやいた後に「もしかして、百合ちゃん?」と訊いたので、私はスクッと肯いた。そして、私たちに会話はなく少し間ができたので「じゃあ、私、行くね。」と伝えるとナリ君は

「あのー、ちょっと今から時間ある?」

と、訊ねるので私たちは戸惑いながらも近くの喫茶店へ入った。コーヒーを注文して店員さんがカウンターへ入るとナリ君は

「あのー、唐突だけど、裕のこと。恨まないで欲しいんだ。裕、百合ちゃんのことマジだったし、大切にしていたから。でも──」

と、そう言ったまま言葉を詰まらせた。店員さんがコーヒーを配膳し終えて、少しした後、ナリ君は話し始めた。

「裕さ、病気でさ、百合ちゃんに弱った姿を見せたくなかったし、心配かけたくなかったんだよ。だから、百合ちゃんの前から消えたんだ。」

私は息を呑んで「え?」としか出てこなくて、瘡蓋が剥がれるような気持ちで、ただ、ナリ君の発した言葉が意味をなくして宙を舞っているような、そんなやるせない気分だった。ナリ君はそんな私を気遣うように「急に驚かせてごめん。」そう言って静かにコーヒーを呑んだ。私は

「今、裕は元気にしてるの?」

と、訊いたらナリ君はコーヒーをそっと置いてから

「裕はついこの間、亡くなって──ごめん。」

と、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

裕が、死んだ。

その事実は私の中で言葉の意味をなくして宙を舞っているようだった。最後に会ったあの夜のことが胸を掠める。

「じゃあ、ここら辺でさようならだね。」

裕の声音はやさしいはずなのに、それが曖昧になって私の体内を巡った。私は何も言葉が出てこなくて、ナリ君に「ごめんなさい。私──」と、つぶやいたけれど、その先の言葉が出てこなかった。そして私は、サッと席を立ち喫茶店を後にした。

街は喧騒で溢れていた。その中に裕の姿が思い浮かぶ。手から伝わる体温も、やさしい声音も、きれいな手も、美しい横顔も、すべてが過去になってしまった。

最後に会ったあの夜、一緒に小声で歌った心の旅を思い出すと、自然とメロディーが体内へ溢れた。私は、心の旅を歌う度に切実に哀しくなると、熱い喪失や寂寥が目からこぼれ落ちた。それは、ポロポロと、ただ、ポロポロと頬を伝い落ちた。雨が降ると埃が落ちて視界が良くなるように、泣くと現実がはっきりして余計に辛くなった。なぜ、裕が消えたのか、私の中の疑問がなくなり真実が見えると、直視できない自分がいた。裕の気持ちを考えると、たまらなかった。

すると、後ろから私の名前がぼんやりと聞こえて、そちらを見るとナリ君だった。ナリ君は

「これ、俺の電話番号だから。また裕の話したくなったら、連絡してね。」

そう言うと、紙切れを渡してくれた。私は「ありがとう。」と言うことがやっとだった。ナリ君は「大丈夫?」と、気遣って駅まで一緒に歩いてくれた。その頃には涙は止まり、ナリ君にお礼を伝えてそこで別れた。

歩きながらまた泣けてきたので、鼻をつまんで上を向いた。深呼吸すると、少し気持ちが落ち着いたので、また歩き始めた。

いつもの帰り道。私は哀しいくらいにひとりで、群青と紺碧を混ぜ合わせたような中途半端な夜空を思い切り吸い込んで肺へ堕とした。











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