〈映画研究ユーザーズガイド〉             第11回 ストーリーテリング(3) 

第11回 ストーリーテリングの映画的技法

 では、ガレット・スチュアートによる、映画のストーリーテリングについてスケッチしておこう。 
 以下、多少なりともぬるい書きっぷりになっているのは、ひとえに筆者の腰が引けているからにほかならない。けっこう強者なのだ。

  まず、スチュアートの仕事はかなり広範囲に及ぶ。
 もともとは年季の入った文学研究者である。その文学論は、以下でみていくことになる映画論となかば対になっているともしばしばいわれるほどに、それ自体が相当ラディカルなものである。(日本の文学研究者がどう受け止めるのか筆者は知らないが、ただ、恐らくはスチュアートを読む場合、前提となっているのはピーター・ブルックスの仕事なのだが、その邦訳の数の少なさくらいは知っているので、いささか不安なところだ。)
 なにせ、文字に読みこまれるのは声であると論じるのだから。デリダを深く読み込んで「声」という主題を見出した番場俊氏は別として、素朴なデリダ論者であればびっくりするところだろうし、そこまでいかなくとも、文学作品とは書かれた言葉の研究であると断言してはばからない向きには煙たい仕事かもしれない。
  スチュアートの議論は、トンガってもいる。
 繊細な文学研究者の文章がそうであるように、稠密な仕方で書き込まれる言葉の連なりは、大づかみであれ概要をまとめるのを頑なに拒んでいる。今次、手にとってみる二冊『Framed Time−−Toward a Postfilmic Cinema』(The University of Chicago Press, 2007)と『Cinemachines−−An Essay on Media and Method』(The University of Chicago Press, 2020)にしても、学術的といっていいのかどうかというほど凝りに凝った文章であり、外国語として英語を勉強した筆者の文法理解ではまるで歯が立たないアクロバティックなレトリックが目白押しで、目はうろうろと泳ぐばかりである。

 内容上の先端ぶりもなかなかで、『Framed Time』に、推薦文を寄せているのは、F・ジェイムソン、L・マルヴィ、D・ロドウィックと大御所から気鋭のスターまで賛辞を送っている。この名前の並びをみると、それだけでも気圧されてしまう人もいるかもしれない。
 このようにもいえる。
 近年、ようやく(数十年遅れといえばまたあちこちから不評を買うだろうが)、「new media」や「media archeology」あるいは「affect theory」や「platform」などといったキーワード、すなわち、欧米はもちろんアジア諸国でもここ数十年アカデミズムを賑わしてきたキーワードが、日本でも優秀な若手研究者の労もあって紹介されつつある。それを睨んで、スチュアートも、メディア研究と称する動きの流れの仕事かなと見込む人もいるかもしれないが、そうした動きとは明瞭に一線を画している。
 レフ・マノヴィッチとマーク・ハンセンはどーんと批判されているし、メディア考古学については批判的解釈を与えた上での言及だ。B・マッスミは名前こそ上がっていないもの情動論については、またその流れでのプラットフォーム論も含め、かなり手厳しい。
 なので、以下、スカスカで間違いだらけかもしれない上(間違っていたらご教示ください)、長文になるのもご寛恕を願うばかりである。

  言い訳と前置きはこれくらいにして、最初に、『Cinemachines』を取り上げよう。
 刊行の時期でいえばこちらの方が後になるのであるが、概略を記載しようとする際には、順番を逆にした方が理論的な輪郭が掴みやすくなるかもしれないからだ。
 さらにいえば、『Framed Time』は、21世紀の一群の映画作品を論じようとした仕事であり、『Cinemachines』はどちらかといえば、20世紀の映画作品群を論じようとしたものである。加えて後者では、21世紀と20世紀の全体を見渡す理論装置として「cinemachines」という概念が提示されている、そんな格好だからである。

 「序」からはじめよう。
 「ポスト–シネマ」を謳う昨今のよくあるメディア論の薄っぺらさ加減を難詰することから文章は起こされている。
 すなわち、映画館にはもう人はいかず、オンライン配信での視聴が逆にどんどん拡大しているのであってみれば、映画館(cinema)を前提とした考えはもはや要を得ていないといった議論を喧伝するメディア論のことである。
 スチュアートによるならば、まずもって、映画館での上映興行がどこまで減退したかはともかくとしても、映画(film)をひとは観ている。早い話が、オンラインでもということだ。(筆者が付け加えておけば、劇場公開作品がストリーミングでも視聴できるだけでなく、ストリーミング企業が独自に制作しオンラインで配信されているものも、いささか不可思議だが「映画」とカテゴライズされている。)
 むしろ、どういう物的回路で試聴されるかではなく、劇場であれ(デジタルプロジェクター)であれPSやスマホのモニター画面であれ視聴されている作品がピクセルを通して(すなわち、セルロイドを通して投影されているのではなく)届けられているという点こそが重要なのではないかとスチュアートは主張する。
 そうであってみれば、少なくともその部分だけをみても、「ポスト・セルロイド」なり「ポスト・フィルム」(フィルムは上映素材を指すこともある)ではないか、というわけだ。
 まずその点をおさえておこう。

  その上でだ。
 映画館であれモニター画面であれ、長方形の枠で縁取られたイメージが流れるスクリーンにおいて、ひとびとがなす経験には、じつに多くの機械装置(machines)がかかわっていることはたやすくわかるところだろう。体験がなされる時空間の物的形状というのは、そのなかのごく一部にすぎない。
 複数の機械装置の集合体という観点から映画なるものを捉え直すことが大切なのだと、そういった、ごくわかりやすい切り口からスチュアートは論をスタートする。

  ごくわかりやすいように映るこの切り口は、実は近年のメディア研究の理論的動向を向き合わせるとき、一気に論争的なものとなる。
 映画を技術経験の面から捉えようとするここ数十年ほどのメディア論的動向がある。このユーザーズガイドでもみてきたとおり、20世紀後半の構造主義やポスト構造主義に対する素朴な反動だ。ゲーム研究から神経生物学までもを参照しながら、情動理論(affect theory)や受容感覚作用(proprioceptive engagement)なども引っ張り出し、ゆるい意味でスクリーンの現象学と称されもする理論的動向だ。下手をすると、小難しい用語並べ立てながらも、テクノロジーの差異が大切だとか、身体の反応が大切だとかをもっぱら話題にし、観者の経験について概括的な様態を論じようとする動向でもある。
 こうした昨今のメディア研究の理論的動向への異議申し立てという企図が、先のスチュアートの論立てには張り付いているからである。

  スチュアートのそれに対する反論はこうだ。
 観ている者において当の観るという行為ができているという成立面を実現せしめているのは、劇場で映写を担っている機械であったり、もっと狭い空間では液晶やらLEDやらのモニター画面だ。つまるところ、単純な技術面の向こう側、生理学的な身体作用の手前側での、イメージの流れにおいて、映画の経験は成り立っている。技術の作動も、身体の作用も、一見基底的にみえるものの、必ずしもそうではない。むしろその間(medial)な水準こそが、映画という現象が成り立っている場ではないか。
 だとすれば、スチュアートも言うように、60年代終わりから一時期流行した「装置理論(apparatus theory)」との違いはどこにあるのか。似通っている点を認めるにやぶさかではないようではあるものの、彼は、周到な条件づけのかぎりのことであるとしている。
 装置論は、映画における装置という軸と、それが文化面において纏った作用との近接性について主張した議論だ。装置理論を、映画が諸技術の複合体として出来上がる経緯そのものにおいて、資本主義から男性中心主義までいくつかのイデオロギーを纏わざるを得なかったといったわけだ。
 スチュアートは、そうした、いささか単純なイデオロギー批判のトーンを脱色せねばならないという。機械の水準での分析を映画研究に導き入れたにもかかわらず、イデオロギー批判のために、いつのまにかぬるい文化論的考察に滑り込んでしまっているのだ。ひいては、観客はひたすらに、そうした技術=文化に翻弄されるだけの受け身の存在になってしまってさえいるだろう。

 むしろ、観客と機械装置の間でいったい何が生じているのかについて、もっと繊細にもっと慎重に思考をめぐらせる必要があるというのがスチュアートの立ち位置ということになろう。技術と文化、あるいは技術と人間の間の相互作用はもっと目を凝らすべきものなのだ。
 スチュアートが目を凝らす先は、映画の技巧、である。「特殊効果」ないし、映画における「効果」一般であるといってもいい。すべての映画は見ることにかかわるトリックだという勢いなのだ。そうした理論方向にこそ可能性があると断じるのである。
 
 たとえばだ。
 『ブレードランナー2049』の監督ドゥニ・ヴィルヌーブによる、その前作『メッセージ』(2016年)をとりあげ、その「技法による詩学technopoetics」についてスチュアートはこんなふうに論じている。
 『メッセージ』には、これみよがしのハイテックな特殊効果はない。また、プロットにおいても、迫力のある戦闘場面などはなく、突然やってきた地球外生物と人類が試みるコミュニケーションの失敗の連続が、かなり地味に淡々と語られていくだけだろう。(筆者自身は、かつて『地球の静止する日』(1951年)で示されたプロットの焼き直しの印象さえもった)。
 スチュアートによれば、作品の醍醐味は別のところにこそある。宇宙からの使節団は、自らのミッションがなんとか成就したと判断したのち、自分たちが乗る宇宙船で地球から去っていくのだが、そのさまを映し出す技が圧巻だというのである。
 アップデートされたフェードアウトを用いることで、幻想的な消滅を画像化したのである。つまり、時空間をワープするような立ち去り場面を描き出すのに、過去の映画作品群において考案されそして何度も試みられ定着してきた技法を、再利用しているのだ。
 デジタル技術によって、とりわけCGによって画面作りにありとあらゆる手段を講じてもよさそうであるにもかかわらず、だ。むしろ、作り手は、映画史が編み出してきた技法を現在のSF世界のストーリーテリングにおいて進化させたという具合なのだ。観客も業界も、その手腕を拍手で迎えたのであろう。だからこそ、『ブレード・ランナー2049』の監督に抜擢されたのだろう。

 映画という媒体は、アナログとデジタルで、その機械技術を取り替えつつも、その技術的基盤に表現可能性を丸ごともっていかれたとするのは、あまりに素朴なのだ。そうではなく、むしろ、それとの貪欲な交渉のなかで次々と技巧や技法を編み出し、蓄え、発展させてきた、そういう映画史理解が駆動しているのである。

  さしあたり、以上の概略をおさえておこう。それほどアクロバティックな論理展開がなされているわけでもないので、理解することもそれほどむずかしくないのではないかと察せられる。
 だが、細部にわたる理論的な練り上げの段となると、スチュアートの論構成は一気に強者ぶりを発揮することとなる。

 『Cinemachines』で、そうした理論的な練り上げを組み立てる際に、補助線としてスチュアートが引くのは、20世紀中葉に活躍した、映画監督もであり理論家でもあったジャン・エプスタインの仕事である。序のあと、第一章などはまるまる、その次第にあてられている。
 エプスタインの仕事は近年、欧米ではその再評価が活発化している――日本では最新の解説であってもいまだ古色蒼然たるものが多く、見誤らないように注意をしよう(急いで言っておくと、ベラ・バラーシュの再評価の動きに関しても同様である)。
 とくに重要なのは、原著の刊行は1946年であるもの、そうした近年の再評価を受けて刊行された新たな英語訳『機械による知能(L’Intelligence d’une machine / The Intelligence of Machine)』(英訳は、ケンブリッジ大学出版局、ミネソタ大学出版など)である。
 いったい映画という機械装置が、人間に対して、どのような地平を切り開いたのか、あたかも一種の知能がなす作業のように、いかなる技法、技巧、効果の歴史を生み出してきたのか、それらを問うために、エプスタインが格好の参照点として担ぎ出されているのである。

  順にみておこう。
 第一に、エプスタインの論立ては、技術に依拠しつつも、技術決定論に陥っていないということがともかくも確認されている。
 人間の意識がそうであるように(というのは現在での諸科学の多くがそう述べているように)、何かを見るという行為は身体をともなってなされる。カメラ撮影においても同じことで、イメージが世界から切り出される作業も、そこにはカメラの場(location)が避けがたく関与することになるだろう。
 その点に鑑みれば、カメラは世界を客観的に切り出すという、素朴な機械的リアリズムはとりあえず括弧に入ることになる。カメラはたしかに自動的に切り出すのだが、それはどこか特定の場所にしっかりと据え置かれなくてはならないのである。その作動(行為)の位置がぴったりと張り付いているのだ。したがって、エプスタインは、「人為的(artificial)」という、リアリズムと対極のフレーズさえ用いてもいるだろう。
 第二に、そうして切り出されたイメージは、現像された上で、こんどは、編集がほどこされ、上映素材としてのフィルムとなり、さらにはスプロケットにかけられ送り出されスクリーンに映写されるだろう。それらは、観客が感覚器官を作動させることで受けとめられるとこととなる。
 もっとも肝要なポイントは、リアリズム部分を多少なりともまだ抱え込んでいる静止画がフレームごとに次々と投影される仕組みは、観る人間との間に、動きをもったイメージを立ち現われさせるという事態が発生する点だろう。
 それは、まったく新しい、運動をそれ自体において実効化するイメージだ。技術によってまるごと決定されているわけでもなく、また、もっぱら人間の身体においてのみ発生しているのでもない、そのちょうど中間(medial)において発生しているものだろう。知能機械としての映画が、人間機械の知能と交渉するなか、生み出してきた地平でもある。
 こうした事態にこそ、エプスタインの論点は絞りこまれているし、だからこそ、独自の命題、すべての映画は「(特殊)効果truquage」であるという命題を提示することになっているだろう。
 こういった理解は、エプスタインばかりが気づいてきたものでもないとスチュアートはいう。cinemachinesが人間の間に生じせしめた効果技法の歴史の価値は、深い思考を実践するひとびとにはきちんと感知されてきたという。
 歴史の折々において、先鋭的な知性が論じてきたことでもあるだろう。戦前のドイツ、つまりワイマール期における先鋭的な映画批評の群もその代表例である。

  自らが参加した、2017年にシカゴ大学でおこなわれた「映画−哲学」というフレーズをめぐるシンポジウムにおける、スチュアートの振り返りも興味深いところだ。シンポジウムは、S・キャベルをどう読むか(バザンをどう読むかも含まれる)という問いを出発点にしていたものだ。
 スチュアート自身は、キャベルの議論と、エプスタインの議論を両睨みで理論化しておくことの大切さを自分は説いたという。
 すなわち、撮影という記録のプロセスですすむ自動化されたリアリズム(インデキシカルなものといってもいい)を強調する『見られた世界(The World Viewed)』におけるキャベルの論点はその意義が、フォトグラムとしてフィルムのコマが上映素材に転写されて映写機にかかるというプロセスでのいわばフィクション化がすすめられるというエプスタインの論点を併せてこそ、十全になると説いたのだ。
 バザンの写真論の系譜を重視しすぎた場合、映画という知能機械がなす生成変化については、部分的な捉え方しかできないことになってしまうということだ。もっといえば、映画機械が人間機械と出逢い交渉し生じせしめる新しいイメージの形態について、キャベル自身が同じ著作で主張した「技法における諸主張(Assertions in Technique)」について、かえって、まるごと軽視してしまうことになってしまうのではないかとさえ論じているだろう。

 こういう調子で、さらに第二章では、ニューメディア研究との差別化を論じ、第三章では、ワイマール期のドイツ映画批評の到達点をあぶり出し、第四章では、ベルグソンにおけるサイレント・コメディを評価する機械論のアプローチの再評価を、第五章では初期SF映画の背景をかたちづくる技法を、第六章では物語世界にかかわる一連の特殊効果を論じる、そういう構成で、この著作は組み立てられているのである。

  あえて付しておけば、「cinemachines」という概念を掲げることで、コマ送りでの映写と、ピクセルの発光に映写の間の差異を、統一的なパースペクティブから見渡すことができるということも随所で確認されることになっている。

  次に『Framed Time』をみてみよう。
 この本の眼目はやわらかくいうと、21世紀に入って広く世間の耳目を集める映画作品が続々とあらわれているが、その特徴を、ひとつの切り口から照らし出してみましょう、そんな感じだ。
 上でみた『Cinemachines』の議論を踏まえておくと、比較的解しやすいと思われる。
 一方ではハリウッドが製作した『マトリックス』や『A.I.』や『ヴァニラ・スカイ』などのSF映画や『メメント』や『シックセンス』などのサイコスリラーないし幻想物、他方ではヨーロッパで次々と制作された己の依って立つアイデンティティがグラグラと曖昧化していくそんな物語の映画だ。それらを統一的な枠組みで語ってみせ、そうすることで、21世紀映画史のひとつのスケッチを示してみせよう、そういった企ての仕事なのだ。

 理論的道具立てでいえば大きくは、ドゥルーズの『シネマ1』『シネマ2』を独自の仕方で駆動させた、新たな映画分析といえるだろう。欧米ではここ数十年、とりわけ北米では、ドゥルーズ哲学を援用した論文や著書はあまたにのぼるが、スチュアートの仕事は目の覚めるような斬新さで、一気にトップに躍り出たという感触がある。凡百のドゥルーズ論のあとで、満を辞しての登場といえば言い過ぎだろうか。
 もう少し絞り込んでいうと、イメージが変容させてきた時空間の様態という大きな問題系のなかで、その主軸にあった映画がなしたことを浮かび上がらせるという問題設定でもあるといえる。スチュアートは、そうした、映画が実現する時間の有り様がデジタル化によって根本的に移行したという論点をかなり強く押し出したのである。自らの主題をいいかえて、ドゥルーズがなしえなかった、つまり彼の死後、繰り広げられたデジタル技術上での「時間イメージ」の新しい姿を確保するのだと記すのも、このためである。

  論の組み立ては、こういうふうにすすむ。
 いうところのアナログ映画では、フィルム素材、つまりひとつひとつのコマ(フレーム)が連なったスリップを用いて撮影されたあと、そのスリップが映写機にかけられて順次送り出されて、スクリーンへと投影される。他方、デジタル映像では、フレーム内のイメージが隅々にいたるまで人工的に描き込まれるデジタル映写機(こんにちではLED映写機)によってスクリーンに映し出される。
 「フォトケミカル」なイメージ産出と「アルゴリズム」によるそれ、「電気的な」イメージと「電子的な」それ、などなどさまざまにいいかえられもする区分だろう。
 そして、それぞれにおいて、時間な産出は異なったものとなっているだろうとスチュアートはいう。
 端的には、アナログ映像では、フレームが送られることに時間経過が実効化されるのであり、他方、デジタル映像では、フレーム内でのイメージの変容が時間を実効化させるだろう。

 さらに敷衍しておこう。
 ひとつのフレームが次のフレームへと順次とり代わっていく映写機にあっては、ひとつの世界の断片イメージが別の断片イメージにつなげられていく仕方で、時間が流れる。つまり、フレームの送り出しという形式をもとに、継起的に時間が流れるということになる。スチュアートが「フレームによる時間(frame time)」が実効化されるという所以である。
 他方、デジタル映像においては、フレーム内で世界の推移の描出が可能となったのみならず、液晶やLED(これはモニター画面だけでなくプロジェクターのレヴェルでもそうだ)の画面において、時間はフレームの枠内でその推移が浮かび上がることになる。いわば、「フレーム内の時間(framed time)」−−この本のタイトルだ!−−が実効されるということになるというわけだ。
 ドゥルーズ自身、デジタル映像については時代が間に合わなかっものの少しだけ記している。そのキーポイントを、アナログ時代は「superimpose」であり、デジタル時代は「reversible」としているが、スチュアートはそれを踏まえ、自らの論を打ち立てようとしているのである。

  この点をともかくもおさえた上で、映画による時間の実効化にかんする近年の代表的な先行研究をスチュアートは検討している。すなわち、S・キュービット、マノヴィッチ、M・A・ドーンの仕事である。

 キュービットの仕事が、下手をすると、スチュアートのそれと似通っているようにみえるかもしれないということもあるのか、紙幅を割いて検討されているので、ここでもしっかりとみておくことにしよう。
 キュービットは、ドゥルーズをより丁寧に援用した、映画における時間イメージにかかわる歴史的ダイナミズムを描出し、映画研究書として欧州をはじめ世界各国で高い評価を得た『映画効果(Cinema Effect)』(The MIT Press, 2006)をものした、英国における現代映画研究の雄である。
 丁寧に援用したというのは、むやみに韜晦だったり難渋だったり、下手をするとひたすらに駄弁のような修辞を連ねたりするもののじつのところ平べったい一元的情動論や大風呂敷な機械主義ないし生命主義を披瀝しているだけといった論述ではなく、個別作品の差異も丁寧に論じ分けた上での論考になっているからである。
 まずはこのキュービットの本をスケッチしておこう。
 キュービットがキータームとして打ち出すのは、「ピクセル化」「カット」そして「ベクトル」である。
 第一の段階(すなわち初期)においては、イメージの「ピクセル化」(スチュアートならフレームというだろう)が生じ、人びとはその明滅(フリッカー)に驚かされるという仕方で、いわば、映写の時間をそのまま享受していた。
 第二段階では、物語を語るようになっていく映画は、複数フレームの連なりをユニットとして扱い、切り出しつなぎ合わせるという「カット」(日本の凡庸な映画批評の言葉では、「ショット」となろうか)が、映画の時間の軸となる。すなわち、カットが線型的に順次送られることで、時間が線型的に流れるようになる。と同時に、カットごと(「ショット」ごと)に、世界の断片イメージが映し出されることから、その映し出された断片イメージが個別の出来事を表すという具合になり、フィクション映画の基盤が整えられることになっただろう。
 第三段階は、概ねデジタル映像の時代といえるわけだが、画面の内側における操作可能性ないしそれに伴う視聴モードの変容である。キュービットは、「力と方向付け(vector)」というちょっとわかりづらいを用語を持ち出しいるが、座標空間上の画像モーションの要諦を捉えようとしているのかもしれない。いずれにせよ、そこでは、運動とともに時間もまた映像それ自身において「創り出される」ものとなったのである。
 スチュアートはこれをどう料理するのか。
 スチュアートが問題含みとみるポイントは、20世紀後半に、構造主義と精神分析を組み合わせた「縫合」理論が流行したことがあったが、その残滓がみてとれるというのである。   
 それは、初期映画史研究でのトム・ガニングの「アトラクションの映画」が素朴に担ぎ出されていることにあらわれているという。ドルーズ映画論とガニング映画論を安易に結びつけるありがちな論だともいえるが、ピクセル化時期の明滅などの(映写の)現在性の享受が、以後、「カット」の時代、「ベクトル」の時代において抑圧されるとともに、その抑圧が画像の技巧において縫合されていくという論運びになっていると喝破するのである。
 別角度からいえば、「ピクセル化」を持ち出すことで、アナログ映画の時期もデジタル映像の時代も、一緒くたになってしまっているというのである。先にもみたように、フォロケミカルなフレームと、ピクセル化されることで操作的に描像されるフレームとの決定的な違いにもとづく理論を打ち立てようとするスチュアートは与することができないということになるというわけだ。
 
 次にマノヴィッチの論についてはどう整理するのかをみておく。
 マノヴィッチが、デジタルメディアの特質を浮き彫りしていく考察において、映画に対してアンビバレントな位置付けを施していたことは、拙著『映像論序説』でも論じたところだ。すなわち、一方では、映画なるものは、イメージ産出の歴史においてはいささか特異なものに過ぎず、とりわけその光学的リアリズムについては逸脱くらいにしかみていないのだが、他方では、映画(ヴェルトフに典型化される系譜だが)こそを、イメージ産出史の理論的モデルとして捉えるという、いささか両価的な姿勢だ。
 スチュアートも、その際どい論の組み立てさ加減をみているようで、イメージ産出史における、映画ないし写真による世界の断片の「抽出」と、それを単位とした「統合」という論法において、過度にバザン的なリアリズムに陥らない仕方での、時間様態の編集的実現が論じられていることに、自らの論との違いをみているようだ。
 イメージは、筆であれノミであれ、編集機であれキーボードであれ、抽出(sampling)と統合(synthesizing)の工程で産出されるのであれば、それはいわば「digital manufacture」での産出ということになろう。しかし、その際に、イメージが定義づけられているのは、「インプット」の水準となっていて、「受容」の水準ではないということになる。
 であるとするとなら、マノヴィッチは、映画における時間生成の現場を見落とすことになっているし、何よりも、そこでは、映画の画面が実現する、写真を含めた多彩な映像の描きこみにかかわる厚みのある意味作用については論じる手立てを失ってしまうことになっている、そうスチュアートは裁断するのである。
 マノヴィッチは、技法については語れない、ひとひねりした技術決定論(ハードにそうではなくとも)に寄り過ぎてしまっているところがあるということだ。

 ちなみに、別箇所になるが、M・ハンセンについても同様である。これまた拙著『映像論序説』で記したとおり、ハンセンはその『ニュー・メディアの哲学』において、デジタル映像においてこそ、情動への省察を作動させる土壌が出来したという。
 D・ゴードンによるインスタレーション・アート『24時間サイコ』をとりあげ、その極端にスローモーション化された映像を、ギャラリーの中空に吊り下げられたスクリーンにおいて経験するとき、訪れた者は、その遅延に身体上の情動的反応、つまり居心地の悪さを感ぜられざるをえない、とハンセンは論じた。
 スチュアートにいわせれば、情動的反応はすでに、ヒッチコックの『サイコ』の鑑賞の場において、とりわけシャワーシーンで、観客の身体に生じていたことで、ことさらにデジタル映像を待つ必要もないし、ましてやゴードンの作品を訪れる必要もない。端的に、ハンセンは技術論に足を引っ張られていて、作品の技法や効果に個別具体的に向き合えないドゥルーズ哲学の劣化版ということだ。
 (ついでに述べておくと、T・ラマールについては言及がまったくないが、推察するに、彼の「アニメティズム」(「「シネマティズム」もセットだ)は、inputの水準でのドゥルーズ的議論ということできるわけで、そうであるとするならば、あくまで映写と人間の間の交渉にこだわるスチュアートからすれば、立ち位置が違うことになるのかもしれない。)

 ドーンについては、まさに、映画の時間様態の実効化について、タイトルがそのままその主題を表しもいる『映画的時間の登場(The Emergence of Cinematic Time)』(Harvard University Press, 2002)がある。
 この著で論じられるのは、映画初期における、イメージの時間にかかわる三つのアプローチだ。ひとつには、19世紀末に時間を連続写真によって解析しようとしたクロノフォトグラフを考案したエティエンヌ・ジュール・マレ、ふたつには、感覚作用を基礎づけし直すことで新たなる哲学を構築しようとしたアンリ・ベルクソン、みっつには、無意識の作用に軸足を置いた時間論を組み立てたS・フロイトである。
 ドーンによれば、どちらかといえばフロイトに依りつつ、これらの論者はすべて、映画的時間について意識を形成する水準においては少なからず退けることになっている。いいかえれば、生きられた時間の意識に関わる科学的な考察において、余分なものあるいは厄介なものとして理論的構成の埒外にとどめておこうとしているのである。あたかも、映画が生み出した時間経験をめぐる問いは、人類にとってはあまり深刻なものではないように、だ。
 スチュアートにいわせれば、だが、ドーンの論立てそのものが、そうした、少なからず厄介なものとしての映画的時間を救い出すこと、そして、21世紀のこんにちにあっては、ひとびとの生にとって見過ごすことのできないデバイスが次々に与えてくる時間経験への問いへとつなげていく理論的地平はみえてこないという。
 もしエイゼンシュテインが打ち立てた、映画的時間がモンタージュによって新たに創出されるという理解をもうひとつ加えておけば、理論的隘路に陥ることもなかっただろうに、と付け加えることは忘れずに、だ。
 これは、映画的思考が同時代の哲学や科学や精神分析を上回っていたということだけをいいたいのではない。同時に、効果や技法といったものがスチュアートにおいては、構造主義的記号論がなしたような一枚岩のテクスト構造でなく、むしろ皺や歪みをところどころに生じさせながら編み上げられた、凸凹のある物的な織物のように捉えられているという理解を先出ししているのである。
 その点をみておこう。

  情動論から技術経験論にいたるまでありとあらゆる概括的な還元主義に与しないスチュアートは、作品分析においてこそ、映画が実現してきた、イメージによる時間様態の構築に接近できるのだという立ち位置を明瞭に打ち出すことになる。つづく第一章で論じられていくのは、この、映画による時間様態の実効化にかかわって、ストーリーテリングの圏域での作動の仕方の理論的な整理である。
  スチュアートは、その要となるポイントを自らの用語「narratography」で概念化しようとしている。
 端的にいえば、物語学(narratology)と対比しながら定義づけられていくnarratographyは、したがって、作品が何をなすのかだけでなく、どこでどのようになすのかという点に焦点が合わされる着想となるだろうというのだ。
 もう少し敷衍すれば、「-graphy(書き込み)」という接尾辞は、映画の場合、視覚的に描きこまれた水準のものを、その仕上がりの次第(いかなる仕組みにおいてなされたのか)も併せて考察する足場を整えようとする方向性を指す。

 ここで補助線となっているのは、ひとつには、ピーター・ブルックスである。
 ブルックスは、(ヤコブソンの言語学と精神分析理論の知見を受けて)その小説分析で論じたような、作品テクストの言葉の連なりが、なぜその箇所箇所で凸凹を生じさせながらも、そのような次第で書き込まれなくてはならなかったのかを問うただろう。シンプルな構造主義/ポスト構造主義による構造概念を大きく越え出でた発想だ。
 たしかに、小説分析にあたって、ブルックスは、ある種のリビドーのようなものを前提としていた。その場合のリビドーは、むしろ、精神分析のそれよりもっと広く(さしあたり、間主観的に蠢く力動くらいにおさえておこう)、表現実践を突き動かすエンジンやエネルギーのようなものと捉えておいた方がいいだろう。もっといえば、印刷紙の上の言葉というメカニズムと人間という行為体との間においてとりかわされる交渉を突き動かすなにかである。
 そうした言語作品の捉え方と、スチュアートの映画作品の捉え方は似ているという。
 映画の場合は、「運動(motion)」による描き込みになるわけだが、そこでもなにがしかのエネルギーが蠢いている。がゆえに、その描き込みでは皺や歪曲も生じることになるだろう。それらを読み解くことこそを、自分は「narratography」と呼びたいというのだ。

  なので、前提として、ここでは、「媒体が持つ固有性(media specificity)」が改めて導入されることになっている。
 媒体が論理的にも実践的にも、その表現実践に先行することは間違いなく、すぐれた作品であれば、その特徴に潜む可能性について必ずや省察を施すことになるからである。
 たとえ、それが自動的な機構でイメージを産出するものであったとしても、である。すでに『Cinemachines』でみたように、自動的な機構でのイメージの産出は、映画の表現実践における一部分の回路にすぎない。
 またマノヴィッチの箇所で論じられたように、それはインプットに過ぎず、アウトプットは、フィルム素材の映写機や液晶ないしLEDのプロジェクターでこそなされるのである。

 とはいえ、とはいえ、だ。
 では、スチュアート自身も、媒体装置を重視する技術決定論に陥っているのではないかという反論にはこう答えておこう。
 スチュアートは、V・フルッサーに何度か言及している。フルッサーは、技術とりわけ媒体技術は、そのインプットからアウトプットまでの仕組みについて、開発者が自身の科学的、工学的用語でおこなう以上、当の技術の可能性あるいは潜在的力能は、開発者の意図を越えて拡がっているとした(筆者も『映像論序説』で詳しく論じた点だ。)
 スチュアートもそれお受けており、だとすれば、映画機械と人間機械の交渉が切り開いていく地平はまったくもって未知であるだろう。

(注釈を加えておこう。20世紀中葉、アメリカン・モダニズムにジャクソン・ポロックを典型として、創作におけるエンジンとして媒体の固有性を尊重するという方向が打ち出されたが、ポストモダンを経て、デジタル技術によるあらゆる表現の一元化の動きのなかで、安直にないし性急に「ポスト・メディア」を標榜する動きもあった。スチュアートが、提示するのは、それらのあと、媒体の固有性について練り上げ直す段階に入ったということだろう。媒体ごとの周到な作品分析にあっては、すなわちnarratographyにあっては、小説であれば印刷文字、映画であればフィルムなりピクセルなりといった、媒体の固有性に照準を合わせたものでなければ、不可能だろうというのである。なんとなれば、人間は作品を、媒体の物質性も合わせて、自らの心とからだで受け止めるからにほかならない。そして、そのこころとからだでの受け止めが、集団的に定着し、またフィードバックし、なんらかの次の作品で積み重ねられ、といった循環的蓄積がすすむなかで、表現技法、効果としての技法はそれとして定着していくことになる、ということだ。)

  こうした構え、こうした道具立てを揃えて、さまざまな現代作品の特徴を目の覚めるような鮮やかで照らし出していくのだが、そのいちいちをここで記す余裕はない。
 だが、前々回、前回との流れもあるので、ここでは、スチュアートによる『メメント』の分析を少しだけみておこう。
 スチュアートにいわせれば、『メメント』の最大の特徴は、オープニングショットのなかに浮かび上がったポラロイド写真にある。
 フォトケミカルな写真がフレームごとに配されたフィルム・ストリップが、映写機にかけられ映写される際に起きていることは、写真的イメージの抑圧にほかならない。もっといえば、写真的時間の抑圧である。
 だとすれば、映画は、その抑圧されたものが回帰されていく、そうした媒体の表現実践となるはずだろう。映画の媒体的固有性とは、写真的時間が幽霊のように回帰してくるというところにこそある。
 映画がさらに重ねて、写真をその動きのイメージにおいて撮り出しそして映し出すのであれば、そしてすぐれた創造性のもとでその制作が追及されるならば、浮かび上がった写真は写真的亡霊がのりうつったかのように、自らのイメージ的効果がたゆたい、うごめき、そして迷走していくにちがいない。オープニングショットからして、ポラロイド写真は、乱暴な指に煽られ、揺れ動きまわるだろう。
 犯罪映画というジャンル映画であるにもかかわらず、そうした点を十分に省察したこの作品は、写真撮影という行為にとり憑かれ、人間たちを翻弄させるだろう。
 もちろんのこと、写真的時間が、映画の語りの時間を歪ませ、逡巡させ、混乱させることになるだろう。
 スチュアートの分析をみるかぎり、『メメント』は、パズルやマインドゲームといった言葉では到底くみ尽くせない、うねりを抱え込んでいると筆者は感じた。

 

 

 

 

 

 

 

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